山崎ナオコーラの最新刊『肉体のジェンダーを笑うな』。タイトルに込められた思いとは?
先月、山崎ナオコーラさんの最新刊『肉体のジェンダーを笑うな』が発売されました。
本作は、男性でも「母乳」ならぬ「父乳」が出せるようになった未来を描く「父乳の夢」や、小柄な妻がロボット技術で人並外れた筋力を身につける「笑顔と筋肉ロボット」など、想像力に溢れた全四編の小説集です。
このたび、著者の山崎ナオコーラさんから、刊行に寄せてメッセージが届きました。デビュー作『人のセックスを笑うな』から16年、このタイトルで本を作る理由とは? 本書に込められた想いとは? ぜひご一読ください。
山崎ナオコーラ『肉体のジェンダーを笑うな』(集英社)
2020年11月5日発売
定価:本体1600円+税
タイトルを『肉体のジェンダーを笑うな』とした理由
『肉体のジェンダーを笑うな』は、「性別のことで小さな悩みを抱える主人公のもとに、時代が進むにつれて光が差し込んできて、明るい未来に向かう」というストーリーの小説四つが収められた本だ。
四つまとめてのタイトルを『肉体のジェンダーを笑うな』とした。
このタイトルを付けた理由を、ここに記したい。
私は、十六年前に、『人のセックスを笑うな』という小説で作家デビューしている。この『人のセックスを笑うな』というタイトルは、会社員をしながら新人賞に向けて小説を書いていた頃に、本屋さんをぶらぶらしていた際、同性愛の本のコーナーの前でクスクス笑っている人たちを見かけたときに思いついたものだ。心の中に、「人のセックスを笑うな」というフレーズがふいに浮かんできて、「あ、このフレーズは、今書いている恋愛小説のタイトルにぴったりかも」と考えた。執筆中の「年の差のあるふたりの恋愛小説」に無理やりこのタイトルを付け、内容を寄せていった。小説は賞を受賞し、ありがたいことに書籍は三十三万部も売れた。
当時、私は地味な会社員で、それまでの人生で「セックス」という言葉を口に出したことがなく、数年の間は著者インタビューを受けても、「この作品は……」「デビュー作は……」などと濁し、決して自分で自作のタイトルを言うことがなかった。
その後、このフレーズはひとり歩きし、私の手から遠く離れていったと思う。
今でも、「人のセックスを笑うな」というフレーズが諧謔として使われているシーンに出くわしたり、「ナオコーラ」というペンネームも相まって私を派手な作家として嘲弄する人に出会ったりして、困惑してしまう。
作品が広く知られてありがたいと思うべきなのだろうが、二十年近く経って、あの恋愛小説の、主人公の年上の恋人の年齢を超えても、なかなかその域に行けない。
私は、自分で書いておきながら、いまだに「セックス」という言葉に馴染めない。
では、「ジェンダー」はどうだろう?
「ジェンダー」という言葉は、この二十年くらいでかなりの勢いで世に浸透した。私が大学生だった二十年以上前、大学の必修科目に「ジェンダー学」という授業があったので、その頃から多くの人に知られていた言葉ではあったのだと思う。ただ、その頃の私の周囲では、この言葉は「それって、ジェンダーだろ(笑)」「ジェンダー(笑)、ジェンダー(笑)」みたいな感じで、性別に関わることでの失言を笑いに変えるために学生の間で使われていた気がする。私は地味な学生だったし、やっぱり、「ジェンダー」という言葉を普段の生活の中で使ったことはなかった。
それなのに、作家デビューした際、「セックス」という言葉がひとり歩きしたことがあまりにつらくて、それを打ち消したいような思いから、ある著者インタビューを受けた際、急に真面目な顔をして「私はジェンダーに敏感で……」と言ってしまった。失言だったと思う。その後、新聞に「ジェンダーに対する敏感さが私の得意分野」というインタビュー記事が載り、「2ちゃんねる」という当時隆盛だった無記名掲示板の私のトピックのタイトルになり、しばらく揶揄されることになった。確かに、「私はジェンダーに敏感」と自分で言う作家の小説など誰も読みたくないだろう。
そういうわけで、その後の数年、私は「ジェンダー」という言葉を封印し、インタビューでもエッセイでも使わなかった。
ただ、「セックス」だの「ジェンダー」だので周囲からしょっちゅうからかわれるので、私はこの二つの言葉にドキドキするようになった。この言葉は一体なんなのだろう、と考え込むようになった。
そうして長い時間が経ち、今回、吹っ切りたくなって、「ジェンダー」をタイトルに使った。
それは、私が年を取り、雑でタフな性格に変化してからかわれても平気になったということもあるし、世の中が「ジェンダー」という言葉に親和的になったということもある。
良い時代が来た。
多くの人が「ジェンダー」という言葉を使っている。
これは、私にとっては過ごしやすい変化だ。時代が良くなってきている、と感じる。
ただ、一般的な「セックス」「ジェンダー」の意味合いが、私の思う言葉の感覚と微妙にずれている。
この違和感は表明したい。なぜなら、私の他にも違和感を覚えている人がいそうだからだ。
『肉体のジェンダーを笑うな』と本書を名付けたが、このタイトルを見かけて、「『ジェンダー』とは社会的性別のことを指すはず。肉体の性別を表す言葉は『セックス』では? とすると、『肉体のジェンダー』というフレーズはなんだろう?」という疑問を持つ人もいるかもしれない。
「セックス」と「ジェンダー」は別のものとして一般に理解されている。
そうして、世の多数派の人が、肉体には絶対的な性別があると受け入れているみたいだ。昨今では、「ジェンダーバイアス(性役割についての固定観念)をなくそう」という動きが進んでいる。その結果、「この体を受け入れよう」「自分の体を好きになる努力をしよう」「体に違和感がある場合、手術をして『別の性別の肉体』に変えればその違和感をなくせるはずだ」「体つきで人間を二通りに分けるのは当然。でも、上位の人間と下位の人間を作ってはいけない」「自信を持って動こう。虐げられてきた側の地位の向上を図ろう」「肉体の線引きは当たり前。でも、社会的な役割は変えていこう」といった考え方が溢れるようになった。もちろん、そう考えて肉体を受け入れ、人生を輝かせられるなら、それはそれで素晴らしいだろう。でも、私には受け入れられないのだ。
人間を二つに分けて、「どちらも平等です」と言えば、問題は解決するのか? 否。
私は、二通りに分けることそのものに反対なのだ。線引き自体に馴染めない。「筋力のある人とない人の間に、厳密な線を引けるのか?」「生理の軽重は多様で、さらにナプキンやピルなどの使用によってもどんどん変化するのに、『生理のある人』をひとくくりにするのはなぜ?」「同性同士なら体のことを理解し合えるという思い込みはどこからくるのか?」。人の体はひとりひとり違う。私は、ジェンダーギャップ(性別による格差)の解消だけではあきたらない。私は、虐げられることのみに反対しているのではない。分けられること、ひとまとめにされることにも反対なのだ。
肉体の性別で人間を区分けすること自体に異議を唱えたい。本当に肉体に性別があるのか? あるいは、あるのだとしても、それを重要視して、常に公表を求める社会は豊かなのか?
セックスもまたジェンダーだ。「これは肉体のことだから、変えようがない」と思い込まされているものも、社会によって作られている可能性がある。肉体を二分することについての固定観念もある。
肉体は相対的だ。強固なものではない。ぐにゃぐにゃで自由なものだ。
私のように、「肉体にも線引きされたくない」と思っている人は少数派かもしれない。
でも、必ず、私以外にもいる。
私はその人たちに、本書を捧げたい。
いや、体を受け入れている多数派の方ももし読んでくださるのなら、何かのきっかけにしていただけるよう、その人たちにも、捧げたい。
2020年11月 山崎ナオコーラ
●関連リンク
「父乳の夢」(『肉体のジェンダーを笑うな』収録作)試し読み
https://www.bungei.shueisha.co.jp/shinkan/nikutainogender/#anchorTrial
「小説ではユートピアを描きたいんです」山崎ナオコーラ×犬山紙子『肉体のジェンダーを笑うな』刊行記念対談
https://www.bungei.shueisha.co.jp/interview/naocola-taidan/