苦しみが喜びに転化する場所としての〈マネジメント〉 『地面師たち』書評/樋口恭介
発売直後に重版が決まり話題を集めた『地面師たち』(新庄耕 著)の書評を、SF作家の樋口恭介さんに寄稿いただきました。普段は外資系企業でコンサルタントとして働く樋口さんならではの批評です。
※『地面師たち』の下記プロモーションムービーも併せてご覧ください。
苦しみが喜びに転化する場所としての〈マネジメント〉
地面師たちは富を求める。地面師たちは巨額の富を騙し取るため、困難な詐欺の計画を立てる。
しかし、彼らの目的はそれだけではない。それでは彼らは何を求めているのか。答えは既に、本書の中に書かれている。本書の主要登場人物の一人、ハリソン山中は作中で次のように語っている。
「つまらないじゃないですか(…)誰でもできるようなことチマチマやってたら。小さなヤマよりは大きなヤマ、たやすいヤマよりは困難なヤマ。誰もが匙を投げるような、見上げればかすむほどの難攻不落のヤマを落としてこそ、どんな快楽もおよばないスリルと充足が得られるはずです」
こうしてハリソン山中ら〈地面師〉たちは、複雑かつ困難な〈マネジメント〉を要するプロジェクトを構想しては完遂してゆくこととなる。本書の主人公であり、ハリソン山中に誘われ地面師稼業に手を染めることになった辻本拓海が語る通り、「ハリソン山中は、成功率を高め、突発的なトラブルに対応できるよう、毎回緻密に計画を立て、入念な準備をおこなう」のだ。それはあたかも、「普通」の「仕事のできる」とされる「ビジネス・エリート」たちがそうするように。
現代では、あらゆる場所に〈マネジメント〉の思想が蔓延っている。
競争原理に基づき高度に発展した自由主義経済社会において、営利を目的とするあらゆる集団・個人の行動は、高度に戦略的に・合理的に・効果的に組織される。彼らは目的を設定し、現状を把握し、目的と現状の間に横たわる差分を特定し、リスクと課題を洗い出し、対応方針を検討し、検討結果に基づいて、妥当な人・物・金・情報を調達する。彼らは困難に直面しながらも、当初設定した目的を達成する。それは「ビジネス・エリート」だろうが「地面師」だろうが変わらない。自由主義経済社会というゲームボードを同じくする以上、戦うための武器もまた同様なのだ。彼らは仕事で直接必要な知識――宅地建物取引業法、不動産登記法、借地借家法、都市計画法、国土利用計画法、区分所有法――はもちろん、「自治体の条例にも通じ」、「刑法や刑事訴訟法の条文ないし判例をやすやすと諳んじる。かと思えば、「アリストテレスにはじまり、ヘーゲルやマルクスといった古典の一部を援用し、滔々と持論を述べたり」もする。彼らは必要に応じて、偽造書類や印鑑、なりすまし役などを調達し、なりすまし役には土地所有者の個人情報を暗記させ、当然ながら髪型や服装も変えさせる。彼らは「仕事」をこなすために、あらゆる細部にこだわり尽くし、騙す相手から信頼を勝ち取るのだ。
彼らが「ただの仕事」のためにそこまでするのはなぜか。ここで様々分析を試みることはできるが、端的に言って、そうするのがただ単に楽しいからだろう。
彼らは快楽を求めてマネジメントを完遂し、社会は彼らにさらなるマネジメントを働きかける。マネジメントの快楽とはサスペンス(=宙吊り/延伸/不安)の快楽であり、快楽の質と量はサスペンスの質と量に一致する。目的と現状の差分が大きければ大きいほど快楽もまた大きくなる。マネジメント=サスペンス。経済社会を下支えする快楽の等式が、あらゆる経済小説を可能にする。そこでは目的は実のところ手段でしかなく、目的達成のために発生する困難こそが目的にすり替わる。要するに、マネジメントとは、苦しみこそが喜びに転化する場所なのだ。『地面師たち』はこうした〈マネジメント=サスペンス=小説〉の系譜に連なる、最先端の経済小説として位置づけられると言える。
マネジメント=サスペンス=小説。三つの記号を等号で結ぶ本稿の整理を裏づけるように、本書の著者である新庄耕は、『現代ビジネス』でのインタビューで本作について訊ねられ、次のように答えている。
地面師たちの手口や手法について調べていくうち、でもこれって小説も似たようなところがあるよなって何度も思うようになりました。
小説も、結局は虚構です。作者が頭の中で作り上げた嘘にほかならない。でもそこに登場する人物の特徴、言動、感情をえがいていくうち、まるで本当に存在しているかのように思え、ときに深く感情移入してしまう。虚構の出来事に、実際に自分が体験したと錯覚するほど感情を激しく揺さぶられてしまいます。
物語の力で虚構を本物に仕立て、相手を騙し通す――そういう意味では、地面師も小説家も同じことをやろうとしているのではないか。地面師たちの執念や狂気に対して、私自身の創作への態度に共鳴するものを感じてしまったんです。
ドラッグ、マルチ商法を経験した異形の作家が〈地面師〉を描くまで――『地面師たち』著者・新庄耕インタビュー
(『現代ビジネス』2019年12月5日配信)
新庄耕はデビュー作の『狭小邸宅』から一貫して、〈小説をめぐる情熱〉と〈労働をめぐる情熱〉を一致させるようにして描き、その背景に、ある種の社会的な病理がひそんでいることを指し示し続けている。
私事ではあるが、『狭小邸宅』が出版されたとき、私はまだ社会人二年目で、使えない新入社員から使える二年目に変わりつつある頃だった。だから私にとって、その小説で描かれていたことは、まったくひとごとではなかった。仕事は認知に影響を与えるし、過剰な重圧で人は壊れる。日常という戦場を息もたえだえに生き抜いた先で、魔法少女たちは魔女になる。
私は、大学を卒業したばかりの新入社員のとき、言われたことだけをこなすようにして仕事をしていたら、「お前さあ、本気で仕事してんのか? 腹くくって人生かけて仕事する気ねえなら、さっさと消えてくれよ」と先輩社員に言われ、ひどく落ち込んだことがある。それから私は怒りにまかせて「腹くくって」「人生かけて仕事」をしてみることにしたのだった。
詳細は長くなるので割愛するが、その後私はプロジェクト・マネジメントの理論を学び、チーム・ビルディングやコーチングのメソドロジーを学び、交渉術や意思決定理論を学んだ。そしてそれらのフレームワークを用いて死ぬ思いをしながら仕事をしてみた結果、そこには得難い快楽があることが――実体験として――わかったのだった。〈マネジメント〉の思想をもってして本気で仕事をしてみると、思い通りになるはずのないことが思い通りになり、自分の資料と発言にしたがって、たくさんの人が動いていった。プロジェクトの中心にはつねに自分がいた。いろんな人が自分を頼りにした。そうした経験には、快感と中毒性があった。そして、その一年後か二年後かには、私自身が私の後輩に対して、「腹くくって人生かけて仕事する気ねえなら、さっさと消えてくれよ」と思うような人間になっていた。私は先輩のことを悪魔のような人間だと思っていたが、ふと気づけば、おそらくは、私もまた、先輩のように悪魔のような人間になっていたのだ。深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞきこんでいる。
月日はめぐり、今の私は作家になり家庭もできて、仕事に割く労力が減り、「仕事に人生をかけろ」などということは思わなくなった。それでも、自分がそういう仕事人間のままでいる世界線は、容易に想像することができる。私が変わったのはいろんな偶然が重なった結果であり、社会は変わらず、「仕事に人生をかける」ことが快楽と依存につながるようにできているからだ。
地面師たちはマネジメントの亡霊に取り憑かれていたが、それは彼らに限った話ではない。働くことに情熱を持たされ、働くことへ駆り立てられる私たちの誰もが、マネジメントの思想をもってして、苦しみを喜びに転化するよう強いられ続けている。そして、新庄耕という作家は今もまだ、小説への情熱を通して、マネジメントの亡霊がさまよう市場経済の構造――〈人を労働に駆り立てる情熱の正体〉――を、暴くことを試み続けている。
ひぐち・きょうすけ '89年岐阜県生まれ。'17年『構造素子』でハヤカワSFコンテスト大賞を受賞しデビュー。Oneohtrix Point Never『Age Of』歌詞監訳、中国SF取材・劉慈欣インタビュー(『STUDIO VOICE』vol.415)など。「文藝 2020年春季号」に短編小説「盤古」が掲載予定。
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