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寒夜に花を贖う

花を買うのはいいものだ。まして悲しい思い出のある日に花束を抱えると、ざらざらする胸の中が柔らかな温もりに包まれる。

遅くなってしまった。玄関を出るとキンと空気が冷たかった。山の家の外はもう氷点下になっている。さっきまで朧月の見えていた空はもうすっかり雲に覆われていた。ふたご座流星群の極大する夜だがどうやら流れ星は見られそうにない。NBロードスターのキーを回しアクセルをいっぱいまで踏み込んでイグニッションを回した。

町に向けて夜道を下った。暮れ残る西の空に北アルプスの稜線が白く光り、まるで宙に浮いているように見える。

「今日、花を買ってきてね。」

出勤して行くときに妻が言った。この春からフルタイムで働き始めた妻はまだ暗いうちに出勤して行くが、帰りもとうてい花屋の開いている時間には職場を出られない。音楽の先生というのは稀に見る激務である。

花を買いに出た時間はちょうど夕方のラッシュ時で幹線道路は渋滞していた。粟沢橋に迂回して市役所の裏から町に入った。バイパスに並ぶ大型チェーン店の賑わいに比べると、この時間でも昔ながらの中心街に活気は少ない。角の不二家の隣りの隣りにやよい生花店がある。ボクたちの知る限り、この町でたった一軒の花屋だ。ガラスの扉から暗い駐車場に花の色の灯りが漏れて美しい。「自動ドア」の表示の上には「手動で開けてください」と貼り紙がある。

手でドアをスライドさせて店に入ると、初老のご主人が柔らかな笑顔で「いらっしゃ」と言った。ボクは会釈してから花の棚に真っ青な竜胆りんどう を探した。だが青い花はトルコ桔梗だけだった。たぶん12月の花屋に竜胆の花はないのだろう。30秒ほどくまなく棚や桶を探してから店主の方へ振り向いた。笑われるのが怖くて竜胆はないかと聞くだけの度胸はない。

「3千円ほどで花束を作ってほしいのですが…」

店主は少し困ったような顔をした。凍えるような夜の閉店間際に初老の男が来て花束を所望している…さしものプロでもその用途が読めない。

「どのようなご用途の花でしょう…」

花屋は正直に聞いて来た。今度はボクが困った。だが、いかにも人のよさそうな店主に花を選んでもらうにはやはり正直に話すしかないと思った。

「今日は犬の祥月命日なんです。」
「え?」

うふふふ。ご主人の動揺がこちらにも伝わってきた。何か合図のようなものがあるらしい。奥からいきなり奥さんがまろび出てきた。

「犬の祥月命日なんだって!」

ご主人が言うと奥さんが目を三角にして目配せした。あははは。確かにボクは謙譲表現で「犬の」と言ったが、客が目の前にいるのだからせめて「ワンちゃんの…」くらいがよさそうである。

花を選ぶ奥さんの手に迷いはなかった。犬に手向けるという難しい注文にも動ずることなく鮮やかに花を束ねていく。トルコ桔梗も3輪選ばれていた。トルコ桔梗はトルコ原産でもキキョウ科でもなく、リンドウ科のユーストマという多年草である。

まだ元気だった愛犬タローと最後に出かけたのは津軽への旅だった。東京に戻る日の夕方、八幡平の大池に立ち寄った。広い湿原にはボクたち3人以外誰もいなかった。

脊柱管狭窄症手術後の激痛に苦しむボクを慮って、タローは何度も何度も木道を引き返してきてしゃがみ込むボクに顔を寄せた。途中からドレミの肩を借りていたが、いちばん短いハイキングコースをもう少しで一周するというところでボクはとうとう痛みに耐えきれず木道に這った。その顔の前で板の隙間から真っ青な竜胆が花を咲かせていた。花の向こうからチャッチャカチャッチャカとリズミカルな爪音をさせてタローが戻ってくるのが見えた。

「これで2900円ですけどいかがですか?」

花屋の奥さんの声で我に返った。

「ではそれでお願いします」

奥さんは小気味よい音をたてて鋏を使い花束を仕立てた。それを大事に抱いて外に出ると胸が温かかった。花を買うのはいいものだ。

町を出て空を見上げるとますます雲が厚くなっていた。ふたご座流星群は雲の上だ。7年前の今日はよく晴れていて、ボクは一人東京湾の若洲の岸壁で流星群を撮影していた。凍える星空の下に妻からの携帯電話が鳴った。電話の向こうの嗚咽する声でタローの死を知った。

そんなはずはなかった。タローは心臓と肺の疾患で余命宣告を受けてはいたが、それは今日明日というものではなく長い介護生活の始まりという意味であった。前日から病院に入院して腹水を抜く手術を受け、元気に退院してきたと連絡を受けたのはついさっきのことだ。だから安心して久しぶりに星の撮影に来たのだ。ボクは動転して手がまめらず、力任せに仕舞おうとしてGITZOの三脚の足を一本バラバラに壊してしまった。足がもつれて何度も転んで膝をすりむきながらなんとか車に戻った。ゲートブリッジを渡るとき、東京湾の星空に向かってタローの名を3度叫んだ。

山の家に帰り、買ってきた花をガラスの花瓶に活けた。3千円の花束はさすがに立派だ。ふだんの命日にスーパーや直売所で買う花束とはずいぶんと違う。今日も妻の帰宅は遅いがこの花を見ればきっと目を輝かせて喜ぶだろう。

散歩も餌やりもボールフェッチも耳掃除もシャンプーももうしてやれない。ボクたちが愛犬にしてやれることは、ただ毎月13日に花を買うことだけだ。

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