孤独との出会い〜その15くらい?〜
孤独についての話しは今まで何度も主張している。
特にそれとの出会いがだいたいみんないつ頃なんだろうかとか、俺は幼少期にも思春期にもあったことは多分どっかで書き残している。
今日はそういう挿話をまたひとつ思い出したので(というか、なんでこういう話しをいつの間にか忘れたり急に思い出したりするんだろう)、自分の脳内整理も兼ねて外在化してみようと思う。
中学生時代のある日、先生同士の不倫の噂が広がった。
友達から聞かされた時は、一瞬は驚いたけど、深いところまでは興味を持てなかった。
「課程」に定められたものには責任はもつけど、それ以外のことに関しては興味を示したり意思表示をしない、そういう捻くれた、扱いにくい生徒だったと思う。
確かに中学生にとっては色恋沙汰は敏感だし、それが一線を越えたものとなると多感にワクワクするだろう。でもその捻くれた”少年”は同じようには感じえなかかった。
言うてそれって当事者の問題だろう?何か困ることが及ぶとすれば、お互いのご主人や奥さんやこどもたちなんだし、俺達がとやかく言う事なんだろか。この話しが本当だとして公の場に晒されたら、先生たちは、生徒たちは、保護者たちは、学校関係者は二人を糾弾するのだろうか。もしそうだとしても「集団生活の秩序と調和」の名のもとに、俺にまで当事者の批判を要求するようなことは勘弁してほしい。
そう当時の”少年”は考え、噂話の輪の中から気配を殺して抜け出し、本か空あたりを眺めていたような気がする。
だが正直悩んでいた。これが孤独なのか?俺の考えは間違っているのか?俺も一緒になってこの話題に対して批判や糾弾をしないといけないのか?それが生きるってことなのか?高校生、社会人になってもずっとこんなことが続くのか?俺は本来在ってはならないイレギュラーな存在なのか?そんなイレギュラーは仲間や救済を求められないのか?
そんな、孤独との第何回目かの出会いだった。
このジャンルの話題に関しては、正直今も主たるスタンスとしてはあまり変わっていない。周囲の迷惑や被害や糾弾を乗り越えたりかいくぐったりしてでも愛したいというのならそれこそが純愛なんじゃないかと。そしてそれは本当に困ってしまった両者の家族たちが批難や糾弾をぶつけるべきであって、第三者である俺達にとやかく言われる筋合いはない。
ワイドショーやネットニュースなんかは往々にして芸能人の不貞行為のニュースが上段に来る。もっと伝えることはないのかと。
介護職時代は、施設の共用スペースで常にテレビが流れていて、やっぱり午後のワイドショーはその手のニュースが多かった。でも認知症の専門部署にいたせいか、利用者さんたちはそんな話しに目もくれずに「私は◯◯出身なのよー」とか、全く関係ない話しをしていて、このほうが対話や話題として健全だよなと様子を眺めていた。
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