掌編小説『とある司令長官の手記』
ここに、一枚のメモ書きがある。
これは、僕が日ごろ仲良くさせてもらっている、インドネシアから来た留学生が持っているもので、『三田司令長官の調書記録』とつたない文字で書かれている。その下には、これまたつたない日本語が横書きでつづられ、ぎっしりと紙面を埋め尽くしていた。
インドネシア人の話によると、これを書いたのは彼のお爺さんで、日本のインドネシア占領下、日本軍から日本語を教えられ、日本式の軍事教練を受け、日本軍の指揮のもと、独立戦争を戦った経歴を持つ、インドネシア独立義勇軍の兵士であった。
日本が戦争に負けた結果、敗戦の将となって刑務所に投獄された三田司令長官の取り調べを任されたのが、彼のお爺さんであった。そのときの記録の写しがこのメモというわけだ。今から紹介するのは、取り調べを受けた日本海軍少将・三田司令官の独白録である。
***
昭和二〇年八月一五日、私たちの戦いは終わった。
それは米英との戦闘が終結すると同時に、インドネシアをはじめとするアジア各国に独立と自由をもたらすという、我ら日本軍の使命が終わりを告げた瞬間でもあった。
しかし、日本軍は敗れたといえ、一度火がついたインドネシア人の独立精神をもとに戻すことはできず、ジャワやスマトラなど、インドネシア各地で独立に燃える青年たちが武器を手にとり、活発な行動を開始したのであった。
戦争に敗れた日本軍は、進駐してきた連合軍との間で降伏協定を結んだ。『ラングーン協定』である。この内容は、連合軍による占領体勢が盤石となるまで、日本軍が責任をもってインドネシア各地に軍政を敷き、治安を保つというものである。
そして、武器をもって住民を威嚇し、独立を志す勢力の動きをけん制、必要とあらば力でもってこれを弾圧する任務まで帯びるという、これまでインドネシアと辛苦を共にしてきた日本軍にとってまことに辛辣で痛切極まりないものであった。
開戦以来、我々日本軍はインドネシアを独立させるためにさまざまな働きかけを行った。その中でも特筆すべきは、独立戦争を戦うための義勇軍の創設である。
インドネシアは350年もの間、オランダによる苛烈な植民地支配を強いられ、骨の髄まで奴隷と化していた。狡猾なオランダは、インドネシア人から抵抗する術を奪うために、彼らから文字を奪い、言語を奪い、宗教・文化を奪い、よって立つ精神をことごとく破壊して逆らえないようにした。
その一方で資源を搾取し、過酷な労働を強いて服従を徹底させた。一部の支配階級を除き、現地住民は貧困にあえぐ生活を余儀なくされたのである。このように、長きにわたる愚民化・奴隷化政策が浸透した結果、インドネシア人にとってオランダ人は到底逆らうことのできない神のような存在になってしまったのだ。
そこで日本軍は、まず戦える軍隊を保持しなければならないとして、軍事教練を徹底して行い、近代戦におけるノウハウを叩き込んできた。もともと勤勉で愚直なインドネシア人たちは厳しい日本軍の教育に歯を食いしばって耐え、メキメキと成長した。体も見違えるほどたくましくなっていった。
一人ひとりが新式の武器をもって戦えるようになった結果、組織化された独立義勇軍は連合軍にとって侮りがたい存在に変質を遂げた。これまで箸と鍬を持つことくらいしかできなかったインドネシア青年たちが見違えるほど成長を遂げたのも、日本軍による直接指導のたまものであったことは言うまでもない。
しかし、この敗戦によって、私たち日本軍とインドネシア人の立場は微妙な状況に立たされた。これまで共に独立を目指して歩んできた『アジアの弟』であるインドネシア人たちの動きを封じ込める立場に回され、インドネシア人はそんな日本軍を敵とみなして反感を抱くようになったのだ。
敗戦という結末が、私たち兄弟の仲を引き裂く不幸を生んでしまったことは、誠にもって遺憾というしかない。こうなったのも、戦争に負けてしまった我が国の責任である。
母国を独立させる気概と気高き精神、その気運をインドネシア人の中に作り出したのは、私たち日本軍である。降伏したからといって、その方針を今さら投げ出すことなどできようか。まして、私たちの指導によって独立精神に目覚めた兄弟たちの行動を封殺するなど、天に唾するような行為ではないか。そんな苦悩と葛藤の中で、私はひとつの決断を下したのである。
独立に燃えるインドネシアの義勇軍たちは、今にも日本の司令部を襲って武器を奪いにやって来る。連合軍との間で取り交わしたラングーン協定に則すれば、私たちはこの動きを鎮圧し、情勢の安定化に努めなければならない。
しかし、それには日本軍と独立義勇軍の間で大規模な武力衝突は避けられず、互いに多くの血を見ることになるだろう。そのような悲劇を避けるために、私は部下に対し、『インドネシア人が来ても抵抗するな。武器を要求してきたら、素直に応じて引き渡すのだ』と命じたのである。
言うまでもなく、これは重大な協定違反であり、連合軍の指揮下にある日本軍の行為として到底許されることではない。しかし、私は『この責任のすべては司令長官がとる』と明言して部下に命じたのである。
敗戦を迎え、連合軍が進駐する中で、インドネシア人の独立に向けた動きは各地で活発化した。散発的に日本軍と義勇軍の間で戦闘も起きた。しかし、私の命令に従い、多くの日本兵はインドネシア人が攻めてくると抵抗することなく、彼らの求めるままに武器を明け渡した。
やがてインドネシア人たちは、我々の司令部にもなだれ込んできた。その一団のリーダー格を務めていたのは、私がかつて可愛がったこともあるムナジという青年であった。
ムナジは私の顔を見るや、泣きそうな顔をして私の膝にすがりついた。そしてこう訴えた。
『まもなくオランダ軍がジャワ島に進軍を果たします。我々インドネシア人だけでは、精強なオランダ軍相手に戦えません。日本の陸海軍が作戦指導してくれなければ、私たちはたちどころに鎮圧されてしまうでしょう。どうかインドネシアの独立のために、私たちに力を貸してください』
私は彼にこう言った。『日本軍は今、連合軍の傘下にあり、インドネシアの治安を保つことを任務としている。そのため、独立戦争をともに戦うことはできない』そしてこう続けた。『そもそも、独立とはどこかの国に依存して掴むものではなく、自らの手で勝ち取るものである。自分たちの力だけで独立を果たせば、君たち民族の名誉にもなるはずだ』
それを受けナムジは『それなら武器だけでも譲ってほしい』と言うから、『武器の譲渡も禁止されている。欲しければ自分たちの力で奪ってみろ』と喝を入れてやった。もちろん、私の指示は日本兵に伝えられていたから、武器を巡って日本軍とインドネシア人たちが激しく争うことはなかった。ナムジたちは、武器を奪って司令部をあとにしようとした。
そこへ、わが隊傘下の陸戦隊が駆けつけてきた。彼らは、インドネシアの群衆が司令部を襲撃したとの一報を受けた参謀本部から、鎮圧を命じられて派兵された部隊であった。
陸戦隊には、私の命令が十分いきわたっていない部分もあり、インドネシア人部隊と交戦する者もいた。そこで副司令官である野田大佐が、入り乱れる陸戦隊とインドネシア人との間に割って入り、『ダメだ、撃ってはいかん』と制止に入り、私も急いで現場に駆け付け、必死にこう説いた。
『これは総司令部の命令である。インドネシア人を撃ってはいかん。日本とインドネシアは兄弟である。ここで兄弟同士争うのは、大東亜構想の理念に反する。彼らに武器を渡して、インドネシアが独立する姿を見届けようではないか』
私の叫びが通じたのか、両者は互いに引いてくれた。日本軍は大人しく武器を置いた。我々の好意を受け、ナムジたちは一礼して戦場へと旅立っていった。
これが、私の司令部で起きた日本軍とインドネシア人との事の顛末である。
***
インドネシア人の友人によると、反乱軍に武器を手渡した罪で投獄された三田司令長官は、その後恩赦を受け、無事釈放されて帰国の途に着いたという。お爺さんの話では、三田司令長官の減刑釈放を望む住民たちの嘆願署名運動もあったらしい。
その後インドネシア人たちは、オランダとの独立戦争を戦い抜き、見事独立を果たした。オランダ軍と戦った組織の中には、現地にとどまった日本兵もいたという。
恥ずかしながら、ぼくは自分が生まれ育った国にそんな歴史があろうとは知らなかった。メモを読んでいたときのぼくの顔は、きっとおとぎ話でも読んでいるかのように無邪気な印象を残しただろう。それに対して目の前にいる褐色肌の友人の笑顔は太陽のように明るく、確固としていた。
「なぜ、このメモを僕に見せた?」ぼくは聞いた。彼はにっこり笑って答えた。「祖父からこのメモを見せられたとき、同じことを聞いたよ。そしたら、その理由は自分で考えろと。日本の友人と一緒に考えたかったからさ」まっすぐぼくを見つめる瞳は南方の青海のように輝いていた。