歴史のifはあっていい
大隈重信は自伝の中で自分のことを「進歩主義者」だと言っている。
明治新政府の中枢にいた大隈は、古い封建的な体制を打破しなければならないと考えた。
そして中央集権のための変革をどんどん推し進めた。
この動きには抵抗勢力がいた。大隈たち進歩主義者が批判した「保守主義者」と呼ばれる人たちだ。
大隈からいわせれば彼らは、日本国全体のことなんてぜんぜん考えてやしない、藩の利益にしがみつく頑迷固陋で厄介な人たちだった。
大隈は特に薩摩藩を批判した。そして彼らに祭り上げられている西郷隆盛の存在を問題視した。けむたがった。
薩摩藩士らは大隈が推し進める中央集権化に猛烈に反対した。中央政府の権限が集中し、藩の力が弱くなるためだ。
また、彼らは農民や町人までが兵隊になる国民皆兵制度にも強く異議を唱えた。
これが国策となれば、武士の文化は廃れる。武士道をこよなく愛した西郷も当然ながら強い危惧を抱いた。
確かに薩摩藩士や西郷の言っていることは保守的に見える。時代の流れに逆らっているように見える。
前を見て新しい政策をガンガンやろうと意気込む大隈は、なるほど進歩的だ。
しかし、ちょっと待て。
自分たちがやろうとすることを一方的に「進歩」と呼ぶのはどうだろう。少しズルくないか?
まだ結果が出ていない時点でそれが進歩的な政策かどうかなんて、どうしてわかるのか。
もしかしたらそれは「変革」ではなくただの「破壊」になってしまう怖れだってある。だとしたら日本は進歩するところか後退してしまうだろう。
新しいものをはじめようとすることをすべて進歩と呼ぶのは、いささか傲慢な気がしないでもない。
それで社会と国と人々の暮らしが「進歩」するかなんて、先になってみないとわからない。
それが最良の選択であるという保証も、ない。
保守したままの未来が変革した未来より素敵じゃないなんて、どうして言えるのか。
何も私は、あのとき変革などせずずっと保守すればよかった、封建的な藩体制のままでよかった、などと言うつもりはない。
西郷隆盛だって封建主義者じゃないし、変革は必要だと考えていた。その証拠に廃藩置県にもあっさり同意している。
ただ、「変革のあり方」や「変革のスピード」で、西郷と大隈にかみ合わない部分があった。
私はただそれだけの違いだと考えている。
西郷としては、維新に功のあった人たちの利益を大きく損なわない形での体制転換を模索したかったのではないか。大隈らの推し進める政策は武士の立場をあまりに蔑ろにするもので、それに反発する藩士たちの気持ちをくみ取りたい思いもあったと想像する。
大隈にとって西郷は政敵な面もあったから批判的になるのはわからなくもないが、西郷は決して保守を言うだけの頑固者でなかったのは確かだ。
中央集権化を推し進めた大隈らの政策により、日本は確かに進歩した。
ただ、大隈らのやり方だけが進歩をもたらして絶対無二のものだったとは思わない。
西郷の「保守的な立場からの進歩政策」が近代国家としての成功例を導き出した可能性だってあるのだ。
あのような急進的な改革ではなく、少しずつ封建体制から脱却するゆるやかな変革と再建の政策だったら、西南戦争は起きただろうか。起きなかっただろうか。
もし起きなかったとしたら、西郷隆盛はじめ、有為な人材は失われず、新生日本を支える貴重な戦力になったかもしれない。
異なる未来の可能性は問わなくていい。ただ思索することが重要だ。歴史についての考察を深めるのが目的だ。
訪れる未来は一つしかない。だから「歴史にifはない」と言う。
ただ、選択肢はいくつでもあった。その数だけ未来は用意されていた。
この「あったかもしれない未来」「異なる選択がもたらした展望」について探求することは、決して無駄な妄想などでなく、社会の進歩につながる有意義な歴史の検証だと考える。
「歴史にif」はない。しかし「歴史のif」はあっていい。
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