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「ラーメン二郎に行くと、そこは茶室だった」


最初にいうが、私はラーメンがそんなに好きではない。
食べても年に1回か2回くらい。
年に1度も食べないこともあるくらいだ。
だから、これは、ラーメン通の人が書くブログではない。

しかし今回私は、人生で初めてラーメン二郎に行き、そこに茶道の精神を感じてしまった。
ただ、それだけのことが言いたく、この筆をとっている。

ラーメン二郎と、茶道の共通点をここからまとめていきたいと思う。


知人に誘われた初めての二郎


ラーメン好きの知人男性に連れられて、京都のラーメン二郎に行ったのは、冷たい風の吹く冬の事だった。
それは京都市の北、ラーメン屋が軒を連ねる一乗寺に店を構える。

ラーメン通の彼はこれまでにもラーメン二郎のことをよく語っており、
私は、そこに独自のカルチャーがあることは、聞いていた。
独自のコールと呼ばれる注文方法、食べ方など。

行くとなれば粗相をしないように、ラーメン屋につくまでにレクチャを受けることにした。

聞くところによると、ラーメンサイズは普通の店の「大」と同じサイズの「並」
そして「並」と同じサイズの「小」
そして、もちろん普通の店の「特盛」にあたる「大」も存在する。
食券の購入が必須。

そして、コール1回目は、麺の量と固さを伝える。

そして、その後、しかるべきタイミングで、
コール2回目で
にんにく、やさい、あぶら(背脂)、辛め を伝える。
「これは絶対に間違ってはいけない」
とのことだった。

彼自身も、京都のラーメン二郎に行くのは初めてで、
「ごめん。これ以上はわからない。店によってルールが違うから」と言った。

ラーメン屋にいくとは思えないレベルの緊張感と高揚感。
同じような気持ちを、どこかで感じたことはないだろうか。

すぐに思い出した。「お茶事だ!」と。
初めてのお茶事。知っている方に連れられ、何度も予習してのぞんだ、あのお茶会だ。

お茶事とは

ここで、少しだけ茶道について触れておこう。
茶道は、空間の中で、身分やしがらみなどを取りはらって
ひとつの空間で、一服の茶をいただく文化である。

そこには、茶をいかに美味しくいただくために、
亭主と言われる主催者が趣向を凝らし、
自らのテーマに沿った空間を作り上げる。

お腹をすこし温めるための「懐石料理」
亭主に選ばれた掛け軸、茶碗をはじめとした道具、
そして、その精神性をもって点てられた一杯のお茶。

また、そのすべての流れには決められた所作と順番があり、
それをみんな知った上でそこに参加する。はじめていったとき、緊張したなあ、、。

その緊張と緩和のバランスを壊さぬように
亭主と客が一体となってつながり、作られる時間そのものが「もてなし」であり、「対話」でもある、、、という文化なのだ。(私が思うに)

初ラーメン二郎に到着して

そんなことを思い出しているうちに、ラーメン二郎についた。

京都のラーメン二郎は正面の入り口は、実は出口で、そこからは入れない。
店の左側に細長い通路があり、実はこの細い通路の先が入り口。
これは知らないと最初のトラップではあるが、すでに人が並んでいたので、間違えることなく最後尾に並ぶことができた。

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最初は緊張のあまりあまり見えてなかったその通路を見渡すと、究極までに研ぎ澄まされた空間。
も、もしや、これは、茶室へ向かう露地ではないか!

簡素なブロックの積み上げた灰色の空間は、そこに佇む連客の色とりどりのジャンパーの色を浮き立たせる。
まるで露地の緑に連客の美しい着物の色が映えるように。

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私たちは皆、その露地をゆっくり進みながら、社会の肩書きやプライド、そして男女の性別や俗世のしがらみをすべて
落としていく。そんな心持ちがした。
言葉をださすにゆっくりと進むその空間こそが、「なにものでもない自分」になるには、ぴったりの長さだった。


ポスターという名の掛け軸


しばらく進むと張り紙がしてある。
よく見ると京都大学のアメフト部のポスターである。

こ、、これは。
茶道でいうところの寄付(待合)の掛け軸….。

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茶道の寄付の掛け軸には、今日の茶事のテーマや店主からのメッセージを暗喩したものが書かれていることが多い。

そこにはこうしたためられていた。

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「君はあふれる想いを言葉にできず涙を流したことがあるだろうか。
勝負に燃える自分を抑えきれず吠えたことがあるだろうか。
仲間を想い我が身を捨てる覚悟を決めたことがあるだろうか。」

熱い。熱すぎる。
今日のお茶事(いやラーメンランチ)への期待。
そして、なによりも「今日この一杯を覚悟をもって体験しろ」と、
そんな店主の今日のラーメン一杯への思いが、
そのまま語られているようだった。

いざ茶室へ


列が少しずつ進み、次はとうとう茶室(いや店内)に入る順番。ここで気が引き締まる。
知人と目をあわせ、「よしいくぞ!」と静かに頷く。
私はこっそりとスマホで、「ラーメン二郎注文の仕方」を確認した。

中にはいるとすぐに、トイレ、食券販売機、コップとレンゲと浄水器、
そしてティッシュがある。

知人は、すかさずここでトイレにいく。
そう、ここからはもう後戻りはできない。
人が生まれ落ちるとき。亡くなるとき。
その道はいつも一方通行だ。  

失敗も成功もふくめて、それが、道。

食券機で「小」を買い、右手ににぎりしめた。
店主が「次の人」というとすかさずに食券をあげられるように。
手に汗がにじんでいく。
これは、茶事でいうところの亭主が入ってきて、
すかさずに扇子をもってお辞儀をするのを待つ時間のよう。

ここからは、もう誰も言葉を発しなかった。

そして、水をとりレンゲをとり、ティッシュをとってその時を待つ。
そしてついに、亭主に呼ばれ私は無言で席についた。

常連と思わしき人々のなかで、
私は1人浮いているようにおもった。
しかし、他の人たちも、その事をわかっているようだった。
そして、この初心者のために、優しくこの場をつくりあげてくれているように思った。

一期一会の体験

ラーメンがきた。充分な量である。小にしてよかった。

ヤサイを多めにしようかと思っていた欲深い自分を恥じる。

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そして、静かに食する。

顔も名前もわからない人々と、作り上げるその空間。

「同じものを食べる」という行為で華をそえる、
亭主のつくりあげた空間、時間。
それを1人として崩すものはいない。

大調和の.......時間。

茶会とは亭主のものであるように、
ラーメン屋も店主のものである。


「一期一会」そんな言葉が脳内に浮かんだ。

気がついた。この時間はもう二度と来ない。
この人たちが、この同じ順番でカウンターにすわり、ラーメンをたべることは、きっともう二度と来ない。


「ありがとう。」不意に感謝の気持ちがこみ上げてくる。
涙が頬をつたった。

そこからは、もう無我夢中で実は覚えていない。
みんな、黙って食しながら、
もう、ずっと前から知っているように、「仲間」だった。

だんだんとお腹がふくれてくる。もう入らないかも知れない。
でも、、、、、残してはいけない。

隣をみると、また知人男性が助け船を出してくれた。
「残していいよ。今日は大丈夫とおもう。初めてってきっとみんな分かってるし。」

それに甘え、私は食事を終え、前にならったように
鉢とコップをあげ、美しくテーブルを拭き、
来たときよりも美しくして、店を後にした。

作法とはルールだ。
しかし、そこに引っ張られすぎるようなら、
もてなしではない。

臨機応変に、その場を作り上げる。
究極のもてなしとは、「機転」なのだ。


外にでると、あれほど寒かった冬の風が
ほてった頬に心地よくあたった。

非言語である茶道が言語であることと同じくラーメン二郎もまた言語だった。
私たちはラーメンを通して、雄弁に語り合っていたのだった。

この世の中には、
「ラーメン二郎にいったことがある人間」と「ない人間」しかいない、という。

次にいくことがあれば、きっとまた違う体験がある。だから今日この日のことを胸に刻み込もう。

重たい麺の入った胸をさすりながら、私たちは今日の体験のことを
ぽつりぽつりと話しながら、家路についたのであった。


ここまでが、私の感じた、ラーメン二郎に感じた茶道の精神。

若輩ながら、したためてみたこの文章は、なにぶんどちらの文化にも未熟である。

しかし、真逆に感じる文化に共通点を見出すことは、人生の点と点がつながること。人生の醍醐味なのかもしれない、とおもいながらここに筆を置く。


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