久高島の光に照らし出されたもの
その島に初めてきたのは、もう16年も前のこと。
友人と沖縄旅行に来ていて、ふと「久高島行ってみない?」と
思いつきで訪れた島だった。
降り立つと、急に時間の速度が変わった。
「一瞬で永遠」みたいなカラッとした太陽の光に誘われたのは
気持ちのいい浜辺。そこでしばらく友人と二人で海を眺める。
その後、村の真ん中くらいまで歩いていくと
ちょうどお祭りをしていた。
白装束のおばあたちが、白い小屋の前で座っている。
途中で、歌がはじまりみんなでカチャーシーを踊る。
私たちもそこに交じらせてもらう。
それが私の初めての久高の体験だった。
岡本太郎氏が書いた著書、沖縄文化論の中で
「なにもないことへの眩暈」と表現した章がある。
表面的な文化や美しさの枠にとどまれるわけもない、
めくるめく流れていく生命の連続。強烈な命の観念。
執筆された1972年からは、随分発展したが、
私の中で沖縄は、その生命の根源に触れられる場所だった。
久高のことは前に訪れたときから、ずっと忘れることはなかった。
機会があれば、もう一度行ってみたい。
前回、手に握り締められなかったものを、行って確かめたい。
という衝動に近い感覚が続いていた。
16年前に影も形もなかった9歳6歳の命二つ(娘)を両脇に、
今回沖縄旅行を計画した。
ーーーーー
沖縄の旅の始まり
旅の前半は、恩納村や読谷などで過ごした。本土よりも風もあり光が強い。
恩納村は言わずと知れた沖縄のリゾート地だ。
少しお金をだせば美しい景色と楽しい時間が手に入る。
白い砂浜、遠浅の透明度の高い海。
砂で城をつくり、波にさらわれる。子供達の笑い声。
シュノーケリングや、サップをする。
眩しすぎる「正しい楽園」。
しかしそれは時に、深く本質に降りていくことを躊躇させる。
ハレーションを起こしそうな光と海の美しさに、
この島の歴史も悲しみも課題も、そして、人間の感情ですらも、忘れさせられる。
思考停止の中で、
表面的で暴力的な幸福感を突きつけられる。
マトリックスの青のカプセルさながら、
本質的なものを見えなくしてしまうリゾートの美しさと、
本質を無視することができない自分の在り方。
どちらのカプセルを選ぼうとも。
目の前にはきっとこの海があり続け、私はそれを
「美しい」と感じ続けるのだろう、と思った。
久高へ続く旅
翌日、本島を南に下り、安座真港へ。
そこから久高行きのフェリーに乗る。所要時間25分。
あっという間に、久高島につく。
周囲たった7.7kmの、小さな島。
遠く昔、琉球を創った神様とされるアマミキヨが、天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという神話がある。沖縄誕生のルーツであり、沖縄の方達の精神のよりどころである、大切な島なのである。
琉球王朝時代は、国王が久高島に渡り礼拝を行っていた時代もある。
島内には、今でも祭祀を行う御嶽(うたき)、拝所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が存在し、中でも島中央部にあるフボー御嶽は久高島一番の聖域であり何人たりとも進入することを許されていない。
初日は、子供達も疲れていることもあり、
私は一人で散策。村の真ん中にある、様々な祭りが執り行われている久高殿や外間殿へ。前回、島民の方とカチャーシーを踊ったところだ。
そして、島の西岸の井(カー)へ。カーとは、井戸のこと。
そこにはいくつかの井が点在しており、昔はそれぞれ、生活用水、禊ぎのためなど、役割があったという。
ミーガーと、イザイガーなどの入り口から西側の海を眺める。
ああ、ここだ。とすぐにわかった。16年前に散策中に来た場所だ。
階段の下に井戸があるのだが、なんとなく入り口でとどまり、「その説はお邪魔しました」と手をあわせて拝んだ。
その後、サンセットを見るために
島唯一の海水浴が許されている、港のそばのメーギ浜へ。
もうすっかり優しくなった日の光と、それを包んで乱反射させる薄い雲。
大きな空が、清らかに私たちを包む。
ここに、こうして小さな命を連れてくる世界線があってよかった。
そんなふうに心から思えた。
前に来たときよりも、ほんの少しだけ、歓迎されている気がした。
この島のすべての生きとし生けるものたちから。
その後、夕食をとった店で、島の方々に会い、
翌朝に、朝ごはんを御馳走になることになった。
その方は外間さんといった。おうちに上がらせていただき、お仏壇を拝む。
どこまでも温かい。
外間さんは、「いつまでいてもいいよー」と言い、出て行ってしまった。
昨日出会ったばかりの人の家で、
私たちだけで、テレビを見ながら
ゆでたまごとジャムトーストを、朝ごはんにいただく。
はびゃーん(カベール岬)までの道
朝食後は、レンタサイクルをして島の北端のはびゃーん(カベール岬)へ向かうことにした。
ここは、先述した創世神アマミキヨが降りたった場所だとされている聖地の一つ。沖縄本島でも、北端に辺戸岬という聖地があるように、どうやら島の北端は、大地と天を繋ぐ場所であるらしかった。
自転車で大人だと20分ほどの距離。北に進んでいくと、白い一本道になり
最北端までつながっていく。
友人に、車ではなく自転車や歩きがいいと聞いていたので、そのとおりにしたら正解だった。
日の光は、私たちの魂にまで届くくらいに直角にあたる。
空はすこんと青く、道はどこまでもまっすぐで白い砂。両脇の草木は、濃い緑で道を縁取り、高く覆っている。
沖縄民謡や、オジー自慢のオリオンビールを口ずさみながら、自転車で進む。植物や自然物たちが体を風に揺らして、それに答えてくれる。
長女はなんどもガタガタ道の石ぐるまにひっかかり、横転しながらも必死でついてくる。私の後ろに乗っている次女が、「ねえねがんばれ!!」とエールをおくる。
何もない一本道。
私たちは、道に濃い影を3人分落とす。
自分がこの自分の命を背負って、ここに生きている。
子供たちも、それぞれの命を背負って、ここに私といる。
その存在が、白い砂に反射して、キラキラとしている。
光と影、生と死が、両方在り、
ネガもポジも、あるがままに、全てが照らし出される。
「嘘をつけない」
生きるものの愚かさや執着。
間違いを犯す命への諦めきれなさ。
自分の優しさと弱さ。
気づけば、馬鹿みたいに泣きながら走っていた。
ーーーー
はびゃーんに着くと、次女が波の音に触発され、
「おしっこがしたい、もれそう」と言い始める。
ーちょっとまて。ここは聖地だ。ここで漏らそうものなら、もうこの島へは帰ってこれない。なんとか気持ちを抑えさせ、
見えない存在とその風景に感謝をつたえて、来た道をいそいで戻った。
イシキ浜は意識、ハタスは果たす
強い紫外線と度重なる横転に、疲れ果てた子供達を外間さんの家に置いて、
もう少し島を巡りたく、私は一人でイシキ浜と、拝所のハタスへ。
前の夜、食堂で出会った島のご夫婦に、お勧めを聞いたところ、
「ハタスとイシキ浜だよ」と言われていたからだ。
「イシキ浜は意識。ハタスはお役目を果たす。
役目がある人はいったらいいさ。あなたお役目があるんじゃない」と。
イシキ浜は、昨日訪れた井と反対側にあたる、島の東岸にある。
細い道を滑走し、小さな看板をみつけて、海辺にでる。
また海の色が違う。
ここは、海の向こうから五穀が入った壷が流れてきて、それから久高島、沖縄本島へと穀物が広まったとされる伝説がある浜だ。
聖地なのでもちろん遊泳禁止。
東の向こうの理想郷ニライカナイから、豊かさが運ばれてきたその神話を想像する。
いつの日も、どこからか運ばれてきた豊かなものを、大切に育てて場が作られてきた。
世の中の災いや、戦い。
愚かな人間によって取り合い潰し合い、豊かさが豊かでないものになっている。
なんとか必死で毎日翻弄されながら、ハードワークをし、命を繋ぐ私たちの生命の在り方は正しいのだろうか。
この壺を受け取った人の願いを、受け取るような気持ちで海の水に足をつけて禊いだ。
その後は、ハタスへ。
イシキ浜に届いた穀物の種を初めて埋めた神田の後とされている場所だ。
沖縄の信仰は自然なので、拝所には偶像があるわけではない。
たいていは石をいくつか積み上げただけの、小さな拝む場所。
何もしらなければ、腰掛けてしまう人もいるのでは?と笑ってしまう。
感謝を捧げ、しばし近くのベンチに座って寛ぎ、空を見上げて思索した。
久高島の光に照らし出されたもの
はびゃーんに向かう道程で、露わにされた自分の魂の声。
傷つきやすく終わりのあるこの生身の肉体の声。
その二つの声が、自分の中で戦っているようにも思えた。
自分の今の命を少しだけ誇らしくも感じた。
そして、
「私の命の使い方があるのであれば、どうか導いてください」
と、そうハタスでお願いした。
ーーー
今回の沖縄、久高島。
受け取るものが大きくて、なかなか言葉にならなかった。
「わからないものを、
わからないまま受け止められる人は強い人だ」
と昔友人と語り合ったことがある。
でも私はこうして、ずっと言語化して生きてきた。
言葉はいつでも、リゾートの光のように
何かを定義し、明示し、それ以外の本質から人を遠ざける。
分かったような気になってしまう。
だけれども、久高の強烈すぎる光は、
善や悪、嘘も真実も、
そのままその存在を、浮き上がらせて、
世界の中心に、どん!と置く。
「これを見ろ。直視しろ。」という。
自分の生き様を、直視せざるを得ない立場になったとき
やっと人は嘘をつけないものを背負って生きていく。
人生で失われた時はそのように求められていく。
生半可でない光のなかで。
無論、そのような大変な生き方をしなくても、
人は生きていけるし、
知らないふりをしてやり過ごすことも出来る。
だけれども、この世界のことわりを、
こうして確認させていただけたこと。
16年前に、手に握り締められなかったことは、
これだったのかもしれない。
ーーーーー
京都にもどり、数日。
すでに、あの情景が懐かしくもあり、夢をみていたのではないかと
思う。
そんな時に、外間さんからLINEが来た。
「次回来島の際は、あらかじめおしえてくださいね。海の幸を準備して
夜は大宴会をしましょう」
あの場所は、ちゃんと今も存在していて、
凄まじい光で、世界の本質を照らし出している。
私が、これからの人生で前の道が見えなくなった時は、
また訪れたいと思うような、
そんな、魂の拠り所となったのであった。
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