頭以外でも考えてみよう〜脳はバカ、腸はかしこい
藤田紘一郎さんの『脳はバカ、腸はかしこい』。
名前と
「寄生虫」
「サナダムシを体内に飼っている」
といったことはなんとなく聞いてましたが、サナダムシについてはもう三代めで、それぞれに名前までつけて愛しているとは。
脱帽です。
詳しくは本書にゆずるとして、藤田さんの在り方、姿勢が素敵です。
最近もどこかで抑圧からの解放をテーマにアウトプットしましたが、藤田先生もそこを強く意識して(抑圧について)現代人に警鐘を鳴らしています。
脳はバカだけど腸はかしこいから、そっちをもっと傾聴しろと。
そもそも腸のほうが「脳」としては先ですし。
御年になられても、いまだに毎日恋をするとか、セックスについても素直に肯定(実践)されていて、あらためて自分の「抑圧」にも気付かされました。
頭(脳)で考えることに慣れすぎて、むしろバカになってしまった我々は、ここで原点(腹)に戻る必要があることが、最近いろいろなところで見聞できます。
怒りひとつとっても下からだんだんと上にあがってきているというのは能楽師の安田登さんの著作で意識するようになりました。
昔は「腹が立つ」「はらわたが煮えくり返る」だったのが「むかつく」(胸)にあがっていき、今では「頭にくる」「キレる」(頭)などというふうに。
そんなふうに意識したことはこれまでありませんでしたが、たしかにそうかもしれません。
少なくとも「怒り」を感じたときに「はらわたが煮えくり返ったわー」とは私は言いませんし、あまり聞いたことがありません。
以前、腹や胸、手など、頭以外の部位で考えてみようというワークに参加したことがあります。
面白いのは、同じ質問にたいして必ずしもそれぞれが一致した反応を返してこないことです。(むしろ一致のほうがまれだったりします)
私の感覚ですが、腹はより原始的な、情動に素直な感覚で、それが上にあがっていくにつれて理知的というか「頭」に近い思考がある意味「不純物」として混ざっていくような。
手に考えさせるのも面白いです。
手というと「頭ではないの?」と思うかもしれませんが、これが案外違うのです。
頭で考えたことをたとえば手で紙などに書き出すとき、そこは完全にイコール(頭と手が)ではないことに気づきます。
もちろん、先に頭で考えたことを書き出すことに違いはないので、まるっきり違うことはありませんが(いや、そういうこともあるかもしれません)
「さぁ、これこれこう考えたからこれを書き出してみよう」と頭で決めて、いざそれを書き出すと、微妙にずれたり歪んだり、思わぬ結果が出てきたりします。
この「手で考える」で思い出したのがジュリア・キャメロンの『ずっとやりたかったことを、やりなさい』という本です。(原題は『The Artist's way』)
テーマは自分のもつアーティスト性に光をあてて、もっと創造的な人生を送ろうというものです。
日々取り組むワーク(実践)として、主にふたつのものが提案されています。
モーニングページとアーティストデートです。
モーニングページは、毎朝ノート4ページ(だったかな)をとにかくなんでもいいから埋めること。
思ってから書くのでもいいし、思いつかずただ書きなぐるのでもいいし、思い浮かばなければ「なにもない、なにもない、なにもない」でもいいのです。
とにかく書く、アウトプットする。
頭で考えたこと、思ったことを書くというイメージがありますが、このやり方で取り組むと、けっこう頭のコントロールから離れて手が主導で考え始めることを実感できます。
間をおかず(頭主導から離れるために)ただ「書く」ほうにポンポンとシフトするのがポイントかもしれません。
とはいえ、そのペースで4ページはけっこうな量で時間も相応にかかって疲れます。(小さい版のノートにすればいいのかもしれません)
そういう場合にはデジタル(パソコン、スマートフォン)でもいいようですが(少なくともやらないよりは)、実感としてはやはり五感をなるべく使ったほうがいい気がします。
その意味では手書きがいいのでしょう。
そして、毎回「創造的」なものが出てくるとは限りません。
むしろ逆のことが多いかもしれません。
(とくに最初のうちは)
そこもこのワークに取り組む意味なのかと思います。
そう。
抑圧が形となって噴出する場合があるのです。
(怒り等、強い情動をともなって)
怒りだけでなく、羨望(せんぼう)や嫉妬(しっと)、悔しさ、恨みなどなど。
それもあってか、人によってはしんどさを感じて早々にやめてしまうこともあると聞きます。(私もわりとしんどかった覚えがあります)
そうした場合は無理せず、別の形で。
たとえば前述の「腹」や「胸」に聞いてみるのもいいかもしれませんね。
とにかく、あまりにも頭で考えることを当たり前としすぎている現代において、あえてそれ以外の部分に耳を傾けてみるのは心と身体をつなぐ一助になるかもしれません。
これを腸内細菌等の体内に存在する微生物群まで拡大していったらどうなることでしょうね。
イメージするだけでも「単一の自己」など存在せず、それらの寄り集まりを「これ以上分割できない自己」だと勝手に思いこんでいることがわかります。
そして、それゆえに悩み苦しむのでしょう。
(だってそんな「自己」などありはしないのだから)