『教育は地続き』の話をしよう
『教育は地続き』
これは、『子どもが主語になる教育』を主張している私の中の大きなテーマです。
●『教育は地続き』に気付いたきっかけ
私には初任校時、教師としての基礎を叩き込んでくれた師匠とも呼べる先輩で出会いました。15年くらい上の大ベテランです。
その師匠は、6年生を担任することがほとんどでした。卒業に向けてクラスの子どもたちにかけていた言葉が、学年通信に載っていました。それがこれです。
「卒業と言っても、小学校と中学校は地続きで・・・」
その後も続きはあったと思いますが、この言葉だけがどうも印象的で、私に刺さりました。
この師匠、良い意味で熱血さのない方です。「卒業生だから」という理由でクラスを盛り上げようとしたり、思い出をつくると言うような特別なことをしたりもしません。もちろん、定められた行事やイベントは行いますが、それが子どもにとってどのような目的があるのか、ということや学習性を重要視しています。一日一日、一回一回の授業を大切にしています。もしかしたら子ども自身は「小学校生活最後の一年なのにつまらない。」と思っていたかもしれません。でも、子どものその先の生き方を心から危惧し、期待するからこその学級経営だと私は思っていました。
それが子どもに対する「小学校と中学校と地続き」という言葉になったのでしょう。
その師匠、主幹教諭であったため学校全体にそういう地続きの流れをつくっていきます。だからその学校で、どの学年を担任しても比較的もちやすさがありましたし、6年間で子どもたちがしっかり育っているという実感がありました。
●『地続きでない教育』に出あう
私は、その後3回の異動をします。その中で、初任校で経験した地続きの教育は特殊な方だったのだと気付きました。
特に3校目と4校目では、管理職を含め、全教員が『その日暮らし』ならぬ、"その年暮らし"という様子で、とにかく、一年間、学級が壊れないことが目的となっていました。高学年は、子どもに対して強く叱れる男性教員を中心に置き、低学年にはベテランの女性教員や経験の浅い若手を据え置く、というようなビジョンが浅い人事が毎年のようにされていました。
実際に私も、「しょうえもん先生は、中堅で体が大きい男性だから高学年担任と体育主任をお願いします。」と人事を通達されたことがあり、耳を疑いました。今思うと、もう少し抗議しても良いことだったかもしれません。(笑)
●『地続きでない教育』の問題点
メディアがたまに『小1の壁』『中1の壁』等と、入学時に子どもが困難を感じるかのような報道をしています。まず、あながち間違いだとは思いません。しかし、「壁ができるのは当然」と言わんばかりのニュアンスには、違和感を覚えます。
例を挙げて考えてみたいと思います。私は、小学校側からの経験しかありませんが、このような言葉が職員室では聞こえます。
○職員室での経験
1年生の担任関連
「○○さん、ひらがなを幼稚園、保育園で書けるようになっていなくて。」「○○さん、落ち着いて座ってられない。幼稚園と保育園でどうしてきたんだろう。」
6年生担任関連
「中学校に入ったら教師はこんなに手厚く関わってくれないのに。」
「中学校に入ったら、毎日の宿題が出なくなる。それなのに○○さんは、未だに小学校の宿題すらやって来ない。学力は大丈夫なのか。」
○『壁』は教師を含めた大人が作り出す
このような経験から思うに、壁があるとするならばそれを作り出してしまっているのは、教師を含めた大人です。教育の本質を大切にし、子どもを育んでいくならば、壁なんて現れません。
保育園、幼稚園は小学校のためにあるのではありません。その考えが壁を作ります。ひらがなを習うことや大人の指示通り座ることは、幼児教育の本質ではありません。主体的な遊びを通し、創造性や発想力を育んだり、人間関係を調整したりできるようになること。このようなことが幼児教育の目的であり本質です。
余談ですが、私の友人には1年生のお子さんがいます。そのお子
さん、園やその夫婦の方針で、ひらがな等の小学校接続のための学
習を、幼児教育ではほぼしなかったそうです。でも現在、1年生で
初めてひらがなの学習に出あったことで、興味津々で学校の宿題を
したり、読書をしたりしているそうです。
幼児教育でひらがなを教え込むよりも、自分で興味関心を広げ
て主体的に学ぶ態度をもつように育むことの方が重要です。
中学校に関してもそうです。小学校は、中学校と違い "子どもに手をしっかりかけるもの"、"一から十まで手取り足取り世話してあげるもの"というスタンス自体がすでに中一への壁を作っています。
○私が感じた『壁』
ここで話は、"その年暮らし"の私の経験に戻ります。それらの学校で毎年4月、新しい学年を担任するたび、私自身が壁を感じていました。
特に、高学年です。すでに手をかけてもらうことに慣れています。一から十まで担任がしてくれて当たり前、叱られてから行動することが当たり前になってしまっています。一番担任として辛く直面したのは、「担任がクラスを居心地よくして当たり前」だという雰囲気です。大変な時は、多くの保護者からもそういう要求がありました。
これは仮説ですが、そのような子どもたちの過去の担任は、できるだけ波風たてないように、学級が壊れないようしっかり管理することが日々の目的になっていたのでしょう。私の学級経営は、学級を子どもの主体性に委ね、対話しながら行っていく考え方が強いため、大きな壁を感じました。
○炎の学級経営 水の学級経営
「波風立てず、とにかく管理する」
「団結!心ひとつに!とカリスマ性でクラスを引っ張る」
「厳しくもあるが、情が厚い。ときには子どもを笑わせ退屈させない。」
こういう学級経営を私は"炎の学級経営"と呼びます。炎がメラメラ燃えて、見るものを引きつけますし魅力があります。派手なので、子どもはもちろん保護者や管理職からの人気も高く、良い評価を受けます。でも、炎は燃え尽きてしまいます。燃料がなくなってしまえば燃えませんし、燃え尽きた後の処理は大変です。次の年への壁を作りやすくしてしまいます。だからこのタイプの学級経営を良しとするには注意が必要です。
それに対して、
「子どもの主体性、創造性に働きかける」
「日々、目的と学びを明確に積み重ねる」
「多くを語らず、子どもの声に耳を傾ける」
こういう学級経営は "水の学級経営"と呼びます。水源を見つけるのに時間は相当かかります。でも流れ始めたら止まりません。どんどん力を伸ばしていきます。教師の役割は、その水が流れ続けるような道筋をそっと整備するくらいです。
"水が流れるような教育"これが『教育は地続き』です。
●まとめ 『持続可能な教育』
学校において教師はその子の数年間、担任であれば通常1年間しか関わりはありません。でも、その子の人生は地続きで、どんどん続いていきます。それを、炎のように1年間だけで燃え上がらせてしまうことには違和感を覚えます。そしてそれは、子どものためではなく、教師のためになってしまっている気がします。
何度も言います。子どもの人生は地続きです。水が滞りなく流れるよう、水源を一緒に見つける。これが、『持続可能な教育』を進めるべき現代の教師に求められることではないでしょうか。
「担任ガチャ」「担任が当たり、はずれ」そんな言葉が日本からなくなることを、まず望みます。
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