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巨人の肩の上に立つ

Google scalarで論文を検索しようとすると、「巨人の肩の上に立つ」という言葉が目に入る。
アイザック・ニュートンがロバート・フックに宛てた手紙でこの表現を用いたことも有名だ。

巨人の肩の上に立つというこの言葉は、巨人の肩の上にのる矮人という西洋のメタファーであり、先人の積み重ねた発見に基づいて何かを発見することを指す。

最初に用いたのは、フランスの哲学者、シャルトルのベルナルドゥス(ベルナール)とされている。ソールズベリのジョンが著書『メタロギコン』でこう述べた。

“シャルトルのベルナルドゥスはわれわれをよく巨人の肩の上に乗っている矮人(わいじん)に準えたものであった。われわれは彼らよりも、より多く、より遠くまで見ることができる。しかし、それはわれわれの視力が鋭いからでもなく、あるいは、われわれの背丈が高いからでもなく、われわれが巨人の身体で上に高く持ち上げられているからだ、とベルナルドゥスは指摘していた。私もまったくその通りだと思う。” 

その意味するところは、偉大な先人たちの業績や先行研究などを巨人に喩えて、現在の学術研究の新たな知見や視座、学問の進展といったものもそれらの積み重ねの上に構築され、新しい知の地平線が開かれることを端的に示した言葉とされる。
多くの論文という叡智が積み上げられてできたこの巨人の肩に僕らは乗り、より遠い世界を臨んでいる。まさにGoogle scalarはその巨人なのだ。


まぁ、ここまでは知っていたことと調べたことをまとめたものなのだが、今回この言葉を書くのは下のnoteを読んだことと、最近自分や周りで思うことあって文章にまとめておこうと思ったからだ。


ちなみに僕の立場はそんなに偏ってないよ。↓

この文章を読んで、響いたのは「学びの深さは学びの広さでは補填されない」、この一文。
ツイートの言った身を以て感じるというのと一緒に書いていこう。


僕のことをリアルで知っている人はわかるかもしれないが、僕の大学で学んでいる分野はいわゆる他分野融合といわれる場所で、ニッチすぎて先生すら教え方をあまりわかっていない。
医療と看護と農学と工学を満遍なく学ぶ。学部はそれぞれ専門を学び、修士に入って四分野の学ぶというなかなかハードな研究科である。

四分野の人間がいるため、講義もわからないことが多い。他分野交流学習を常にしている感じだ。わからないことは多し大変だが、なかなか楽しいので良しとしよう。

しかし、この他分野融合について思うのが、やはり「学びの深さは学びの広さでは補填されない」の一言だ。

どんなに他分野の勉強をしようと、一向にロボットを作れるようにはならないし、深層学習だって理解できるようにはならない。結局、ロボットを作れるようになるにはロボットの勉強をするしかないのだ。
講義では、農学だとベンゼン環がよく出てきて、医学だと癌やら麻酔やら、看護だと看護の歴史(ナイチンゲール)などの話を聞いた。
正直全くわからないし、理解できてもそれが僕の分野(ロボティクス)に活かせるとはなかなか思えなかった。
自分の経験を持って思うが、他分野学習をどんなに行おうと、自分の分野をある程度極めていないと意味がないのかもしれない。自然にコラボレーションが起きることはないし、無理やり関連性を見つけよというのは専門分野を持つ人間としては苦痛なのだ。(けれどそういう自発性は大事なので意識は持つべき。ただし、他人から強制されるようなものではない。)

しかし、その一方でこういうことも思う。
他分野融合の良いところは違う視点を持つところだ。
よく国数理社を学ぶことで違う視点から物事を見ることができると言われる。例えば、目の前にリンゴがあるとして、国語からは「真っ赤くて美味しそうなリンゴ」、数学からは「3個の綺麗な球体のリンゴ」、理科からは「温度管理や肥料管理され糖度が高くなったリンゴ」、社会からは「青森で取れトラックで届けられたリンゴ」などただリンゴをリンゴとして捉えるのではなくその背景を様々な角度から見ることができるようになる。
そういう意味では他分野を学ぶことは大事かもしれない。


漫画『鋼の錬金術師』で、エドワード・エルリックは旅の果てに「10もらったら自分の1を上乗せして11にして次の人に渡す」という方法を試案する。等価交換ではなし得ない最後の法則だ。
勿論これは等価交換が成り立っている物質ではあり得ない。しかし、無限に近い有限なもの、すなわち知識はその可能性にあるのだ。まさにエドワードは巨人の上に立ち、その巨人をさらに大きく作り上げようとしているのだ。


まとめ

知識の深さが知識の広さで補填できないように、知識の積み重ねをクリエイティブやらイノベーティブやらという耳障りのいいものでは補填できない。
結局深く掘ろうとすると深く狭くなることはほとんどなくて、深く広くなってしまう。だから、広く学習することよりも深く学習することで広さを確保する方が僕は最適解ではないかと思う。


あとがき

どんなに広く探したところで見つかるわけがないと思うんです。なぜなら、求めているものは自分の真下に埋まっているからです。そして、深く掘るには穴が広くないと行けないからです。
結局どんなに広く探しても、僕らが求めているものはすごく遠いところにはなくて、最初に手をつけたところにあって、ずっと自分の一番近いところにあるはずなんです。ただ、深いところにあるから勘違いしてるだけ。

パウロ・コエーリョの『アルケミスト』と同じだと僕は思います。右往左往は必要です、広く浅く迷走する時期も必要だと思います。ただ、結局答えは自分の下にある。
確かに小手先でどうにかなれば簡単だし、もっと楽で簡単な方法があればいいなとは思うし、深く専門性を掘っていくのは辛抱がいる。けれど、自分が望み自分が欲しているものは自分の下にしかない。

つまり、必要なのはggるでも、disるでもなく、digるです。どんどんdigっていきまっしょい。

下書きが熟成されていたのでとりあえず出しました。

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