一期一会ってのが嫌いなので逆らって生きていく
たまに思うのです。
「一期一会」という言葉を作った人は、別れた後になって後悔しその一会をもう一度取り返したいと思ってるのではないだろうか、と。儚いという感情でこれは美しい出会いだったと言い聞かせ、後悔を隠しているだけではないだろうか、と。
この一期一会という言葉を作ったのは、千利休とされています。(千利休は書物に一期一会という言葉を残しておらず、弟子の山上宗二が利休の言葉として「路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬イ畏ベシ」と残しています。そして、それを井伊直弼が一期一会と四文字熟語に表現したとされています)。由来は茶道からで、語源はどんな茶会も二度はないから、相手には一度しかない出会いと心得て誠意を尽くすべきだという心構えを表す言葉です。
心構えとは言うものの、この一期一会という心構えにたどり着くまでには、おそらく一期一会を逃した経験や後悔があったのではと考えるのです。(深く調べてないのでわかりません)。多くの後悔、もしくは非常に大きな後悔の中でその時間を取り戻したいと利休は考えたことがあったのではないでしょうか。
さて、私も大学生活の中で様々な出会いをしてきました。学友だけでなく、先輩や後輩、社会人の方々、好敵手、目標、恋人など多くの人に出会い別れてきました。
後悔はないと言えば嘘になりますが、後悔が良くも悪くも昇華され、あの時の出会いは儚い一期一会だったと自然と自分の中に擦り込ませようとしています。けれど、もう会えないんだと心の中で諦め、それさえも儚くて美しいじゃないかと考えている自分に苛立ちさえ感じます。そんな靄の中にいます。
二週間前、大学の同期たちと飲みに行くことがありました。6年も一緒だった彼らとは思い出話ばかりで、久しぶりに楽しい時間を過ごしました。その時は、卒業までにあと一回くらい飲みに行きたいね、遊びに行きたいねと言って、けれど結局みんなもう引っ越してしまって、なんだあの時が最後だったのかと今になって名残惜しく思い返してしまいます。
感慨に浸り、ノスタルジアを感じて、儚く美しい思い出に耽ります。
けれど、そのノスタルジアの後に、いやそれでいいのか?と考える自分もいます。
私はどうも一期一会の”心構え”は好きなのですが、その”状態”をはいそうですか儚いねぇ儚いねぇと受け入れるほど日本人的美学をインストールしてないのかもしれません。
勿論、どんな機会も一期一会のつもりではいるし、その瞬間を楽しもうと、思い出にしようとはしている、誠意も尽くす。けれど、じゃあさよならってなんか嫌じゃないですか。
「どんなに会ったって、嫌ほど喋ったって、ずっと一緒に居たって後悔しない別れはないし、だからこその一期一会なのだろうけど。
いや、けどさ、なら今すぐ会いに行こうぜ。話に行こうぜ。
たぶん、会って喋って満足して帰って、またもう一回会いてぇなってなるけど、その繰り返しでしかないけどさ、そんな愁いはまだ50年先くらいまで取っておいてとりあえず足動かそうや。」
だんだんそんな考えになってきています。
いかんせん後悔が多いものですから。
なので、私は、今後の人生でもう一度あなたの前に現れようと思います。一期一会を儚んだ後、もう一度会いに行きます。それでも、たぶん死ぬまで悔しくてなにが一期一会だクソがって言ってるんでしょうが、そういう人間に私はなろうと思いました。後悔がない別れってのはたぶん無理だし、後悔する別れがあるってのはそれだけ過ごした時間や出会いに価値があったんじゃないかって思うんです。
だから、あいついつも来るよな、よく会うな、暇かよ〜って、どんなに遠くても会いたいから会いに来たっていうそんなやつでありたいって思います。たぶん私の足はそのためにあります。
次に会った時は、酒を呑みながら、昔話や最近の話、そして未来の話をしましょう。そして、私はその後に、あーあいつともう一回話てぇなってなって、また来ます。
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