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作家が読んだ、作家の本。『家宅の人』(檀一雄)

小説家は布団から這いでると、
まずビールの小瓶を手にする。
唇の泡をぬぐい、ひとごこちつけば、
おもむろに買い物かごを腕へひっかけ市場へ繰りだす。
作家は分厚いメガネの奥を炯々とひからせ、
食材えらびに熱中、帰宅と同時に
盛大なる精力をもって料理にとりかかる――。

壇の代表作『火宅の人』を読み返した。
本屋をそぞろ歩きしている際に彼の料理エッセイを手にとり、文体の明るさテンポの良さを再発見、これはたいへんな作家だと認識を新たにした次第。
家に戻るや、おっとり刀で彼の遺作のページをめくったというわけ。

『火宅の人』は悲惨な物語に違いない。私小説というジャンルに放り込まれる作品であり、発表当時は暴露本ともいわれたのもうなずける。主人公の桂はそのまま壇と重なり、作中の人物がほぼ特定できる。
あるいは、自堕落な中年男のヨタ話といえよう。それを裏がえせば、自制のきかぬオッサンの不行状でもある。

主人公は2度目の妻とたくさんの子(次男は重度の障がいを持つ)を打っちゃり、10年近くも愛人と暮らす。 いや「打っちゃり」と書いたが、主人公はのうのうと妻子のいる家と愛人の間を行き来する(右往左往というほうが正しいか)。

その間にも、ふらりと旅立ち音信不通となる――旅先ではまたぞろ別の女と情交をつうじる。こんなことの繰り返し。

久しぶりに、気まぐれに家庭へ久しぶりに、気まぐれに家庭へ
顔を出した父親に子どもたちはいう。
「チチ、もうどっこも行く?」
その声の無邪気さ、妙な明るさ。普通なら、
「もうどこにも行かない?」
と心細げに問うはずなのに。

カネは懐にあるだけを、ためらいなしに使いはたす。 マネープランなんか、あったもんじゃない。 あげくに、出版社や新聞社から前借りする。

昭和50年代、主人公は新聞小説をはじめ数々の連載を持ち、月収はたびたび100万円をこえていた。 大卒のサラリーマンの初任給が7万円ちょっとだった時代のことだ。

旅先では気の置けない、どこかうらぶれた宿にこだわり、食と飲にはとめどない意欲を示す。寝床にまでウイスキーを持ちこみ、とめどなく流し込む。

主人公は初老といわれる年齢になっても女体に執着し、それがなまなかではない。 女のいない夜の寂寥は主人公の甘えであり、胸に空いた深く冥い洞でもある。独り寝すれば女への恋慕に苛まれ、己で精を散らす。
そんな時につぶやく愛への考察は崇高だが、諦観と自虐がついてまわる。

妻、愛人、時々の恋人……女たちもこんな男に愛想尽かしをすればいいものを、ずるずる泥沼にはまっていく。 彼女らにとって主人公は宿痾といってよかろう。

(ここまでご高覧ありがとうございます。続きが読みたい、というお気持ちの皆様は、ぜひ増田晶文のHPをご高覧ください。エッセイ#22『改めて、檀一雄』。アドレスは下記です、他にもエッセイはじめいろんなコンテンツ満載。ぜひクリックを!)



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