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丸帯・京女と京男のプライド

丸帯をどうしたらいいか....

明治・大正時代の婚礼写真には、肩から飛び出すような大きな立矢に結んだ丸帯が見られます。重いことと生地が厚いことで、あまり変化のある結び方はできません。丸帯が箪笥の底に沈み、袋帯や名古屋帯が好まれるようになったのは当然のなりゆきでしょうか。私どもの法人へも、「値打ちのあるものらしいが、どう扱ったらよいかわからない。」というご相談とともに丸帯を持ち込まれる方があります。
確かに今となっては扱いづらい帯でしょう。私のおすすめは、半分にして軽い裏地を付け、袋帯を2本作ることです。約20年前、着物リフォーム全盛の頃は、この丸帯さえもリフォームして、衣服にしようとした方がありました。できたというので見せていただきましたが、どう見ても陣羽織にしか見えませんでした(笑)。

鳳凰文様の丸帯

丸帯は女性の宝物だった

こうして時代が明治・大正・昭和と下り、邪魔にされてゆく丸帯です。しかし、江戸時代の家庭婦人の着付けをみると、ほどんどの人がこうした地味ながら精緻な織の帯を締め、場合によっては前結びにしています。
今のような固い芯も入っておらず、もっと結びやすい固さであり、かつその長さや幅も締める人の身長に合わせて作られていたと思われます。今よりもっと織の素材や質を見極める人が多かった時代には、良い帯を締めることは、女性のステータスであったに違いありません。

織に命をかけた京都の男性

数年前の家政学会服飾分科会の見学の折、「伊達美術」の山中次郎さんの帯地コレクションを見学させていただく機会がありました。その際、大変興味深いお話を伺いました。

明治4年末、政府はオーストリアのウイーンで1873年(明治6)に開かれる博覧会に参加することとし、大隈重信参議・井上馨大蔵大臣・寺島外務相大輔がその御用掛りとなり、60万円の巨費を投じて全国各地の特産物・工芸品を出品し、同時に伝習織工を派遣して、日本品の海外宣伝と外国の先進生産方法・技術を学び取ることとしました。

流水と花文様の丸帯

このときに派遣された伝習生は24名で、このなかに織物関係者は6名が含まれていました。そのうち京都府からは2名、伊達弥助60歳、早川忠七24歳が派遣されました。弥助はジャカードや飛杼(とびひ)バッタンの研究を進め、明治6年12月末日に帰国しました。山中さんのご先祖がこの4世伊達弥助であったというのです。

弥助は和漢をはじめ、蘭学・理学・医学を学んだ秀才でしたが、60歳は当時としてはかなりの高齢です。新技術の習得のためとはいえ、海外に渡るには並みならぬ決意が必要であったと思われます。「西陣を興すの時期、この行にあり。一身一家を犠牲にする敢えて辞する処にあらず。」と彼は病床の妻に決意の程を書き送っています。こうしてもたらされた機械織の技術は、西陣の発展に大きな貢献をすることとなりました。このように、複雑な織の丸帯には、京男の矜持が込められています。

似内惠子(一般社団法人昭和きもの愛好会理事)
一般社団法人昭和きもの愛好会HP

追記:
先日、京都市内にあるゲストハウスに行った際、丸帯がランチョンマット風に使われていたのに驚愕しました。丸帯ではありませんが昔、東京都内のブライダル専門のレストランで、「黒地の袋帯を探してほしい」と言われ、30本ほど納めたことがあります。使い方は人それぞれです。

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