数字と年表でみる黒羽織の歴史
さて このマジョリカお召の後で彗星のごとく現れたのが 黒絵羽織です。 黒絵羽織は諸説がありますが、 本来は 色物の羽織に絵柄を織り込んだ商品であったが、裏の糸がどうしても目立ってしまう。 それならば色を黒に染めてしまえばいいという発想から始まったと言われています。黒絵羽織の誕生には 吉澤織物の吉澤会長のインタビューが記録されています 。
なぜ黒絵羽織は長く売れたか
そしてこの黒羽織は色々なバリエーションが作り出され 、そして PTA ルックという名前で一世を風靡したのです 。マジョリカお召 が若い女性向けであったのに対して PTA ルックは年齢層を問わず 既婚女性のためのものです 。
そしてその背景には「 これは長く着られる 」そして「子供の入学卒業に必要という 」購入への 理由が ちゃんとあったのです 。 先日 筆者が調査した嫁入り用の着物のセットの中にも黒絵羽織りが入っていました 。
こうして 黒絵羽織は嫁入り道具として 、そして新規に購入しても家庭の必需品として認められたのです 。売れるのは当然のことでしょう。十日町織物工業組合の編集になる 着物 十日町 50年のあゆみによれば 黒絵羽織はこのような経過で誕生したと書かれています。
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マジョリカブームの退潮で苦境に陥っていた産地に救世主の如く現われた黒羽織の存在を忘れることはできない。
羽織の丈を短くして刺しゅう、絞り、手描き、型染めなどの工芸加工をした黒羽織は、新しいフォームの羽織として消北者の人気を呼び、「PTAルック」の愛称で一世を風靡した。
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産地はこんな風に動いた
このグラフをご覧ください。昭和44年は絵羽織の生産が最高で、グラフが振り切れるくらいです。
根茂・古沢・根準・飯賢らの自生地ちりめんの伝統技術のメーカーは、34年に誕生し爆発的な売れ行きを示していたマジョリカお召には一顧もせず、ひたすら独自の後染ちりめんの研究に収り組んでいました。
37年に十日町の量産型のタテマジョリカと桐生・米沢とで生産する交織・値ごろ品の滞貨が増大し、10月にはマジョリカ会で五割削減産を決議する苦境に追い込まれました。
このとき救世主として登場してきたのが黒絵羽織であり、その後、十数年にわたりヒット商品としてその名声を全国にとどろかせたのです。
黒絵羽織は昭和44年に単品で最高の110万枚の生産を記録し、実に産地総生産の41%を占めました。黒絵羽織は誕生以来20年問にわたり1100万点が牛産され、1800億円の売り上げを達成し、産地最大のヒット商品となったのです。
黒絵羽織が誕生した過程は、決して偶然によるものではありません。十日町は明石ちぢみの産地の伝統を生かした強撚糸の技術を持っていました。加えてジャカード紋織を用いた紋意匠白生地で、縮緬の製法に練達していました。
売り上げの続く間にも、糸の開発など企業の努力は続きました。
似内惠子(一般社団法人昭和きもの愛好会理事)
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【参考文献】:
十日町市史 通史編 織物 十日町市役所 発行 平成9
きもの十日町50年の歩み 十日町織物工業協同組合 昭和60年
イラストは絵本「おみやさまとかみさま」 大阪府神社庁発行