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23年間の会社生活の振り返り(1997~2020)

【1】初就職からうつ病発症まで

<1社目>
大学院を出て最初の会社は九州にある小さなメーカーの研究開発職。
就活で100社以上とコンタクトをとり、やっと拾ってもらった会社なので今でも感謝している。とても田舎な会社だった。農家の息子も多くて農繁期には会社よりお米優先というのんびりしたところであった。副業を認めてないはずだが、実質的に会社の業務が「副」なのはいいらしい。

またその地域がムラ社会であり、ちょっとどことかかなり息苦しかった。
研究開発の後は、学術・製品企画部門に異動した。業務内容は多岐に亘り、やりがいはあったが案件が小さく、こんなところで埋もれたくないって根拠のない自信があった20代。
3年勤めたけど「給料安いから辞めます」ってホントに言っちゃった。給料で辞めて成功するヤツはいないぞ!!と上司の上司に説教されたので今に見てろよ、と退職を固く決意したな。

<2社目>
30歳、転職で大阪に引っ越した。心機一転、新しい会社(メーカーではないが同じ業種)ではめちゃくちゃ頑張れた。入社早々にデカい案件を担当させてもらい、必死に働いた。程なく前の会社の倍の給料を貰えるようになった。会社も昇給・昇進という蜜と仕事をいう鞭を沢山与えてくれた。
少し背伸びした目標を掲げることで本来100の能力も年末には110になっている感覚を楽しんでいた。

人というものはどんどん欲が出てくるものだ。トラブルシューティングみたいな仕事をこなすうちに、頓挫しかけた案件ばかり来るようになった。誰かが止めてしまった歯車を再び回すような立て直し業務だ。

35歳にマネージャーに昇進した年に運命の案件を引き受けた。
いわゆるプロジェクトリーダー。
そのプロジェクトチームは東京本社、札幌、仙台、大阪、名古屋、広島、福岡の各支社・支店から構成されていた。
プロジェクトメンバーの不満も一緒に引き受けてしまった。今でこそ浅はかだったなと思うが、メンバーの不満や相談事をひとりずつ丁寧に聞いてしまっていた。相談ばかりに時間を費やしてしまい、プロジェクトを回していく時間が足りなくなり、残業が続いた。管理職なので残業すればするほど時給換算するとどんどん下がっていった。

ある時、
なぜかメールを全部削除してしまう。
通勤電車で座ったときに、視点も定まらずぼんやりしていると、なにも感情は沸いてこないのにただただ涙がこぼれていく。
考え事をしていないのに降りるべき駅を通過してしまう。
何をするべきなのかわからない。
うつ病を発症してしまった。

【2】はじめてのうつ病治療

感情をどこかへ忘れたようだった。脳みそがぶっ壊れた。選択することができなくなった。2択ですら選ぶことができない。あと、ご飯の味がしなくなったのは覚えている。砂利を噛んでいる感覚と言えばいいだろうか?
どうやって調べたのかは覚えてないが、とにかく妻に連れられ自宅から電車で数駅にある病院の精神科の門をたたいた。

柔らかい口調と表情の担当医からすぐにうつ病の診断が下った(正式には診断書には「抑うつ状態」とあり、これを会社に提出しなさい、と。うつ病の診断は直ぐには出ない)。この謎の現象に名前がついたため安心する自分がいた。涙が滲み出た気がする。担当医は「強制的に休んでください、だらけているんじゃないかと思うくらいに休んでください」と言ってくれた。診察には妻にも同席してもらい、毎回ほぼ1日かけての通院(時間予約がなく、診察に時間を要する)だった。

頑張らないことを一生懸命に頑張った。

薬も良く効いたようだ。担当医にいわれたとおりすぐに吐き気等の副作用が出たが、遅れて主作用も出てくれた。
抗うつ薬は効果が現れるのに時間がかかり、副作用が先に出ることがあるようだ。よく効いたのだろう。時を待たずして、薬は徐々に減量されていった。
※抗うつ剤は漸増漸減(副作用を少なくするために少しずつ薬を増やし、禁断症状等が出ないように少しずつ減らす)が基本とのこと

会社に提出した診断書に記載された休職期間を待たずとして気分はすこぶる良くなってきた。最後の方の診察で先生に病状を説明した時にこう言われた。
「〇〇さん、実は今飲んでいる用量では、すでに薬効はないと思われます。もうほとんど治っていると思います。最後にお守りを出しますので、持って帰ってください」

処方箋の用法用量の箇所には本当に「お守りです」と書かれてあった。最後まで寄り添ってくれる先生だった。今でもフルネームで覚えている。3か月で復職できたのは先生と妻のお蔭だ。間違いない。
余談だが現在は大阪で開業されている。初診は受け付けていないとホームページに書いてあった。信頼のある先生はご健在ということだ。

【3】復職と2回目の転職決意

あれだけ苦しんだうつ病であったが、「これ以上休んだら脳みそが腐る」と思うまでに快復し、復職した。元の部門ではなく、サポート部門へ異動されていた。しかも非管理職への降格減給というおまけ付きで。そもそも何も説明なく減給っていいのかな?

さらに衝撃的なことを知った。
休職中にチームメンバー(部下)が11人も辞めていた。
なるほど、自分は管理職失格なんだな、と思った。

多くの若手が会社を辞めてしまったのは私のせいだ。
…という想いもあったが、自分は精一杯やったつもりだ。
なので、自分を責めるのはやめにした。
この悔しさを新しい業務を覚えるためのエネルギーに昇華すると決めた。
1年間だけ頑張ろう、と。
元々この会社に入った目的はメーカーで開発業務に就くことだったので、本当は5年で転職する計画だった。予定より1年延びてしまった。

異動先の仕事はすぐに覚えたため、この1年は退屈だった。
山のように契約書を読んだことは、いつかどこかで役に立つだろう。
転職の手土産になると思うくらい。
それよりも、いろいろなプロジェクトリーダーたちと接触する機会があり勉強になった。

自分みたいに部下の話を聞く時間を設ける人なんていない、という印象だった。ドライと言うかメンバーとの接点が少なすぎない?それでいいのか?と冷めながらも思った。
退屈な仕事は、丁寧に引き継いで2社目を辞めることにした。

<3社目>
さあ、2回目の転職だ。
35を越えての転職は難しいと思ったが、案外そうでもなかった。

かねてからメーカーに行きたかったので創立ほやほやのベンチャーから大企業まで各社を受けた。
即戦力として買ってくれる会社にした。
間もなくある得意分野を持つ外資メーカーに決まった。

面接官は「ぜひとも〇〇さんが欲しい、大変だろうけど、大阪にいる3人のまとめ役もしてほしい」と言ってくれた。
業務はうつ発症前と同じように人と会う仕事。嬉しかった。

【4】うつ再発のいま

大阪の社員3人は全員が自分より年上だった。うち1人は私の入社にあわせて辞めた。引継ぎもなく担当先を押し付けるように辞めた。あら、引継ぎくらいあってもいいけど、まあいいやと思ったのを覚えている。

転職の際の面接官は東京本社勤務の自分の上司だった。
あっという間に1年が過ぎた。本当にあっという間に時が流れた。
バリバリの外資系だったが、忘年会はあった。
上司「どうだった~♪ この1年、大変だった~?」
私「はい、大変でした…」
上司「ぼく、面接の時、大変だよっていったよね~♬ 思ったとおりだったかな~♫」
私「想像をはるかに超えて大変でした…」

でも心地よかった。
その後、大阪の事務所から東京に異動した。管理職は向いていないと思ったが部下ができてしまった。半分は年上の部下だったが、気張らずにイケたのもあり、いい関係を保てた。
在籍中に、とてもいい商品を出せた。秘密が多い業界なので詳細は延べないが2022年現在も売れ続けている世の中に必要なもの。

<4社目:2社目と同じところ。今の会社に>
また、転機が来た。
2社目に一緒に仕事をした同僚が偉くなっており、ヘッドハンティングに来た。その人とは私が入社当時から数年間同じ案件(大プロジェクト)に携わった人だった。その人もまた大阪から東京に異動していたみたいで、私を買ってくれていた。是非ともカムバックを!って。
それが嬉しすぎて、ツラかった過去のことをすっかり忘れてしまっていた(大いなる勘違いであった)。必要とされることだけで嬉しくなり、今度は非管理職として再入社した。

メーカーでの経験を活かせると思ったが、活かす場を与えられず、外からの文化を取り入れないような社風になっていた。
必要とされるの意味は一兵隊として、であったと後で気が付いた。
案件一つ一つが個人商店のようだった。くすぶりながらの仕事はものすごく辛い。

<4社目の担当プロジェクト> ※印はうつを再発した当時
案件①②:若いメンバーの世話をしながら自分の担当も回した。
案件③ :これまで4人で回していた案件をたった1人で引き受けた。プロジェクトリーダーは外国人。3人代わった。
※案件④⑤ :派遣社員が半分以上の案件のとりまとめ役としてジョイン。
※案件⑥ :極端に若いメンバーが多い案件。

日々だましだましやって来た感じだが、業務過多で徹夜などしてしまった。

2012年に再入社、2020年でうつ病再発。
現在、治療中である。


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