あらかじめ決められた恋人たちへ『2"』
第3章「別れ・再生・目覚めの日とシリアルストリーム」
2
中島みゆきの楽曲が繰り返し再生された。
銀色のチェーンが肌の弱い僕の首筋に戒めのように焼き付いた。
痒みよりも痛く、重みよりも苦しかった。
ペンダントの中には何もない、本当に何も——もしも何かが入っているとするなら、僕は何を望のだろうか。
参列者の多くは少年時代の同級生たち、そして僕が知らない大学時代英米文学科の彼女の同級生たちだった。人が死んだというのに、集まった顔見知りたちは同窓会のように懐かしい顔と時おり笑顔を交えながら話していた。
自殺だった。
大量のアルコールを摂取したあと、アパートのドアノブにロープを括りつけもたれかかるように首を吊った。
そんな低い位置でも首を吊って人は死ぬことができることを初めて知った。
医者の見立てでは、あと十分発見が早ければ生存できたかもしれなかった。
十分なんて、僕が煙草を三本吹かすのと同じ時間だ。
遺書はテーブルに置かれた小物入れのような小さな引き出しに入っていた。
僕はその遺書を読むことはなかった。
彼女は一冊の本を抱えたまま死んでいた。
ロケットペンダントと交換した、ボロボロになった僕の本だった。
僕が彼女について語ることはこの先ないだろう。
だから最後に少しだけ語りたいと思う。
彼女が死んだのはもう随分と昔のことだ。僕は歳を重ねた。思い出の中の彼女はいつまでもあの日の美しい姿のまま記憶の中に存在する。一秒ごとに僕は歳を重ねる。実感なんてないが、生きているということはそういうことだ。
彼女と聞いたCDの中の中島みゆきは録音された当時の声量を変わらずに発声し続けた。1995年の中島みゆきは、彼女が死んだ15年後も1995年にいる。
阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、Windows95、プリント倶楽部に戦後50年。世紀末に録音されたその声を僕たちは15年後何度も何度も再生した。
彼女が死んで5年近い歳月が経った。
腹が減って大きな鍋にスパゲティーの束を入れる。塩をいれて僕好みのアルデンテに茹であがれば5年という歳月は過ぎた。
こんな感じにあっという間だ。
中島みゆきは相変わらず1995年の景色を持って、彼女もまた死んだ当時の景色のまま僕の中に存在した。
暗闇の中に一つだけ真白な消しゴムを持って、その暗闇に強く擦りつけていた。
消しては暗闇に浸食され、消しゴムはだんだんと小さくなっていった。
結局その暗闇は暗闇のままで、あとに残ったのは真っ黒に丸まった暗闇のカスと、何か書かれていたはずの僕の本だけだった。
何もかも灰になった。
僕の本も、中島みゆきのCDも、お気に入りもワンピースも彼女の美しい透けるような白い肌も、右目の泣きぼくろも、つやつやとした黒い髪も、綺麗なピンクのマニキュアを塗った爪も、飛び出そうなほど大きな眼球も、可愛らしくちょこんと生え整った陰毛も、いつの日か生命が誕生したかもしれない子宮も——全部灰になった。
彼女の両親から小さな骨の一部を頂いた。
彼女を形成していたどこの骨か分からない、小さな小さな骨の一部だ。
僕は奥歯で噛み砕いて、そのまま呑み込んだ。
どうすることが正解なんて分からない。ただ僕は噛み砕いて呑み込んだ。
一言だけ。
「夢の中で逢いましょう」
3
繰り返される夢の中で、僕はいつも同じ行動をとる。
部屋の中で『命の別名』は眠ったままで、どこかにある手紙を探す。
それはいつもラプンツェルの髪の隙間にあって、人魚姫の魚卵の中にあって、ピノッキオの鼻の中にある。アリスの膣の中に初恋はあって、初めてのセックスを思い出す。
そして夢から抜けるときは、好きな色の中で眠る。
夢を見ているとき、僕は常に何かを探している。
それは他人の意思であったり、自身の意識であったり、一つの答えや、それに通ずる何かが芽生えたとき、次の夢へシャフトされ、繰り返し、そしてまた戻ってくる。
「スイッチを入れてみなよ、夢ならば明かりは消えないし、明かりはつかない」
これは一つの夢を確認するための方法だ。
僕の部屋のソファに座ったボブ・ディランが弾き語りをしながら、いつかそんなことを言っていた。僕はその方法を未だに試したことがなかった。理由なんてない、そうすることが僕自身の意思であるような気がしたからだ。
それでも僕はこの夢から抜け出したいと思っている。
なんだか矛盾だらけだ。
僕は自身がどうしたいのか、どうありたいのか分からない。だからいつまで経っても夢際を彷徨う。小さい男の子が新しい玩具をおねだりするように、駄々をこねているようなものだ。いつまで経っても自身と向き合うことを拒否している。
僕は二十代最後の小さな男の子だ。