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あらかじめ決められた恋人たちへ『4"』


第3章「別れ・再生・目覚めの日とシリアルストリーム」

  

第1章、第2章はここから

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 彼女が死んだのは間違いなく僕のせいだ。
 僕があの日『穴貸し』に出会わなければ彼女は死ななかったかもしれない。
 だけれども、僕たちは出会ってしまった。

 彼女はそこにいた。階段に座ったまま空を見上げていた。
 一条の月の光に照らされた少女だった。

『穴貸し』と出会ったのは花園神社拝殿前の階段だった。
 僕はゴールデン街にある知人の店を出たあとに、千鳥足で花園神社に向かった。
 何故花園神社だったかというと、理由なんてない、少しだけ誰もいないところで休みたかっただけで、たまたま目についたのが神社だったわけだ。

 彼女は風を運ぶ月明かりのような黒髪をしていた。
 2012年8月の空っぽの空に月が綺麗な、やけに蒸し暑い夜のことだった。
 
 僕は気が付くと階段に座っている少女に見とれていた。
 彼女は印象派の描いた絵画のようだった。夏を飛び出した一輪の向日葵のように輪郭のない瞬間的な存在は、歌舞伎町を、ゴールデン街を、一歩出た先には似つかない風景画のようで、曖昧な現実が僕の両目のフレームに驚くほど焼き付いた。

 首筋の汗が上手に木から降りる猫みたいにするりと勢いよく流れた。
 
 僕は左手の甲で首筋の汗を肌を気遣いながら軽くぬぎ取ると、それが何かの合図のように彼女は読みかけの本を閉じて缶珈琲を口にした。それはまるで月を目指して飛んだ鳥が、まだ親元から離れることのできない青い鳥のようにずいぶんと背伸びをしているように思えた。
「こんなところで何してるんだい?」
 初めてのことだった。僕が見知らぬ女性、それも直感的に十代だと思った女の子に声をかけることは、僕にとって本当にありえないことだった。
「希望ってスクラップアンドビルドだと思うの? 積み重なっては崩れて、また積み重なっては崩れて、また希望を持ってしまう。そんなのはただの幻想で、実際には紙切れが数枚積み重なっただけの希望なのに、まるで自分には羽が生えて空高い彼方まで飛んで行けそうな気さえなってる。それは蝋で固まった鳥の羽だとも知らずに——。そしてまた飛ぼうとする」
 僕は彼女の横に腰を降ろして「なるほどね」と言った。
「男ってどうして女に優しい振りをするの?」
「振りをする?」
「そう、振りをするの」
 
 ひとときの静寂。

「私——夜の仕事をしているんだけど、なんだか今日嫌になっちゃって逃げて来たの。初めて逢った人にこんなこと話すのもなんだけど、働きたくないなーって」
「辞めればいいんじゃないかな?」
 彼女は僕をちらりと横目で流してため息をつくように笑った。
「辞めてどうするの? 私は何をすればいいの? この方法でしかお金の稼ぎ方を知らないの。何度も逃げ出したわ。でも結局、鎖を繋がれた犬みたいに私は元の場所へ戻るしかなかった。外に出ると気持ちが良かった。自由なんだって錯覚しちゃうのよ。そしてそれは今も同じ——」
「なら、僕が連れ出してあげるよ」
「どこに?」
「さあ? この世界のどこかだろ?」
 彼女は高級レストランのウエイトレスのような素敵な笑顔をみせた。

「名前はなんていうの?」
「『穴貸し』でいいわ」
「君の名前は?」
「僕かい? 僕は——」
 
 こんな風にして僕たちは出会った。
 それはまるで懸命に彼女の羽を蝋で固めるイカロスのように、今度は自由な大空を優雅に飛び立てる準備をするように、僕は一枚一枚丁寧に羽を蝋で固めていた。

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「歳はいくつ?」
「やめて——そういう聞き方、お客さんみたいで嫌——聞くならもっとロマンチックにドビュッシーの月の光が流れる素敵なバーで、映画の名前を付けられたカクテルを重ねながら自然によ」
「だとすればピアニストはモニク・アースで、僕のカクテルはミッドナイト・イン・パリだ。君はそうだな——ディズニーはどうだい? 魔法にかけられてかな」
「素敵な王子様が現れてくれるといいわ」 
「きっと現れるよ」
「きっと?」
「うん、きっとだ。僕が保証するよ」
「嬉しい。どんな人かな?」
「そうだね。僕みたいな人だよ」
「冗談がお上手で」
「ねえ? さっき何を読んでたんだい?」
「ホープ・リヴィングストンよ」
「ホープ・リヴィングストン?」
「イギリス人作家よ。私は彼から言葉を教えて貰ったの。私の人生のようなものなの」
「今度読ませて貰ってもいいかい?」
「もちろんよ」
  
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『穴貸し』の所持品は黒い傘。
 黒のリュック。
 現金七千六百十一円。
 ホープ・リヴィングストンの書籍が五冊だった。

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 この夜、僕たちは人目を避けるように新宿からバスの後部座席に腰掛け渋谷へ向かった。
『卒業』のベンジャミンとエレーンは何もかも投げ出して、誰も自分たちを知らない大地へ旅立ったことを思うと、僕はせいぜいベランダから見える高層マンションに引っ越して、まったく新しい世界に出逢ったと勘違いしてるくらいちっぽけでしかなかった。
 それでも僕は目的地なんてない——世界のどこかだ、と言い聞かせる。
 そんなちっぽけな男でしかなかった。
 もちろん宇宙にだって行けるのであれば、銀河バイパスでアンドロメダ方面でも目指すだろう、男であればそれは当たり前のことだ。
 ただ現実は、スターバックスで二つ買ったカプチーノを飲みながら、酷いノイズが響き渡るセンター街のカラオケ店を目指すことだった。

 カラオケの締めくくりに彼女は『オールド・ラング・サイン』を唄った。
 
「閉店のBGMは別れのワルツっていうって知ってた?」
「蛍の光だろ?」
「それが違うのよ。同じメロディなのに不思議よね」
「本当のこと?」
「もちろん」と彼女は言った。僕は「信じられないな」と首を傾げると「本当のことよ」と彼女は言った。
「間違いないわ。1949年に公開された映画——哀愁……。だったかな、それでオール・ラング・サインのメロディに乗ってヴィヴィアン・リーとロバート・テイラーがダンスするシーンが人気になったそうよ」
「それで? なんで別れのワルツと蛍の光は違うのかな?」
「それだけよ。そんなことがあった、ていうだけでそれ以上は知らないわ。女の子はただ、共感を求めて欲しいだけなのよ。すべて理解して、はい解決、はいらないの。そこはそーなんだって共感して欲しいだけなのよ」
「そーなんだ」
「なんだか、ちょっとだけイラッとする! そんなことじゃ女の子にモテないわよ」
「お生憎様、付き合ってる女の子はいるんだ」
 彼女は今まで笑顔が嘘のようにすうっと真顔になった。
 沈黙が続いた。時間にすれば、渋谷セルリアンタワーの十階から一階までエレベーターで一日かけて降りるくらいゆっくりと時間が流れた。
「なんで——。優しくしたの?」 
「——君が悲しそうだったから。それじゃ駄目かい?」
「そうやって直ぐに優しい振りをする」
「振りじゃないさ。本当にそう思ったんだ」
「そう——。ありがとう、楽しかったわ——私やっぱり戻るわね。私の場所はやっぱりあそこなんだ」
「戻らなくていいよ。今日ぐらいは楽しめばいいじゃないか」
「でも——」
「僕の家に来なよ」
「えっ?」
「大丈夫、彼女は来ないさ」 
『穴貸し』は僕の提案に頬を赤らめながら「うん」と小さく頷いた。
 僕はその様子を見て素直に綺麗だと思った。

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 僕らはドン・キホーテで、彼女の下着と部屋着のスエットを買った。洋服を三着買った。黒と白の縞模様のワンピース。デニムのショートパンツ。キティーちゃんがドグロになったTシャツ。靴を買った。黒のコンバースのハイカットにベージュのグラディエーターサンダル。化粧品を買った。生理用品を買った。水を買った。ウーロン茶を買った。カップ麺を買った。チョコレートを買った。ポテトチップスを買った。プリンを買った。an・anを買った。あと、目についた必要な気がするものを、片っ端から買い揃えた。
  
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「無菌室のような部屋ね」
「それは僕にとって最高の褒め言葉だよ」
 だいたい誰かを僕の部屋に招待すると決まってこんなニュアンスの言葉を使う。


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