あらかじめ決められた恋人たちへ「3'」
第2章「記憶・歯車・意識的特異点とプラグアンドプレイ」
9
彼女が死んで一週間、僕は喪に服した。
その間、中島みゆきの楽曲を家で永遠と聴いていた。
たぶん僕が中島みゆきを聴くことはこの先、一生ないと思う。
10
ロケットペンダントを首からさげたのは一度きりだ。
彼女の葬儀のときだけ——僕は初めてロケットペンダントを首からさげた。
11
ここで一通メールを紹介しよう。
東京都目黒区在住。
ハンドルネーム『幸福になる核兵器の使い方』さんからだ。
カズさん聞いてくれよ!
ボクのハァニーについてだ!
ハァニーは自然の中でしか性行ができない変わった子なんだ。
ボクは目黒区と品川区の境界辺りに住んでんだけど、近くに林試の森ってのがあってね、性交をするときは必ず公園の中央にある橋の下の小川でじゃなきゃダメなんだ。
家の中で胸でも揉もうってもんなら、ヒステリーを起こして文明の英知をことごとくぶっ壊すんだ!
変わってるだろ?
ボクはね、聞いてみたんだ。直球になんでだってね。するとハァニーはこう答えた。
「そんなの私の勝手でしょ!」
そりゃーそうだ。勝手だけど、ボクのことも考えてほしいよね。ボクは別に外でそういった行為をすることは嫌いじゃない、ドキドキするし興奮する。家の中でする性交の何倍も気持ちいい。だけどね、だけどね、ここは東京だ。小笠原の秘境じゃないし、火星の大草原でもない、大都会さ。
だからね、もしかするとハァニーはボクのことが嫌いで別れたくて、そんなところでしかさせてくれないのかと思ったんだ。でもね、そんなことはなかった。毎日、毎日ボクが寝る前にキスをして言うんだ。
「大好きだよボクちゃん」
てね。キスはいいみたいなんだ。それは分かった。でもボクには理解できないんだ。
カズさんはどうだと思うかな? ハァニーが少数派の性癖の持ち主だったら?
でもね、実のところ最近は楽しいと思ってる。どれくらい前だろうね、大昔はその辺の道端で性交してたって思うと、規律や秩序があるってのは生きにくい生き方だとボクは理解したんだ。
だからね、ハァニーのために一度地球を更地に戻せばいいじゃないかって、人工物だけ全て破壊してありのままの姿にね。核兵器でどっかーんとだよ。そうすればハァニーは幸せな性交ができるんじゃないかな?
ボクは毎日悩んでます。
追伸
よくよく考えれば、そんなことしたら放射能汚染だ。ハァニーは悲しむな。
そうだ! 静止軌道まで全部持っていって宇宙に打ち上げるってのはどうだい?
核兵器の宇宙花火を眺めながら林試の森で性交する。サイコーじゃないか!
12☆
『痛いいたいイタイいたいイタイ痛いイタイ痛いいたい痛い痛い痛い痛いいたいイタイいたいイタイ痛いイタイ痛いいたいいたいいたいいたい痛いいたいイタイいたいイタイ痛いイタイ痛いいたいイタイイタイイタイ』
こうして皮膚を突き破り血まみれの尻尾が生えた。
ボクはこのときのことを全く覚えていない。
『未知しるべ』は繭の形をしているのだと言う。
どこからともなく繭は形成されて、気が付いたときにはその場所に存在する。
産まれてくる新生児は、既に大人の姿をしていることもあれば、子どもの姿をしていることもある。もちろん赤ん坊の姿をしていることだってある。ボクは偶然にも大人の姿形でこの世界に誕生した。
それが何を意味しているのか分からない。
何故だか分からない。
それがこの世界の基本原理でもある。
ボクは何故この世界に産まれ存在して、命の名前を探さなければならないのか?
それに意味なんてあるのだろうか? 答えは本の中の夢だけが知っている、はずだ。
13
「ねえ、君と僕っていつ出会ったんだっけ?」
「さあ、はっきりと覚えてないわ。どこだったかしら?」
僕は休日の日課である本屋へ適当な服に着替えて向かった。女の子とデートする服でもなく、馬に乗るための服でもなく、ましてや火星人の服装でもない、本屋へ行くのに適当な服だ。外は今にも太陽が落下してきそうな天気で、ハンカチで何度も首筋を拭きながら、冷房で隔離された空間へ足を運んだ。
「それでこの本買うの?」
「もちろんだよ。だから君にお願いしたんだよ」
本屋へ入るとまず目に飛び込んでくるのが新刊の山だ。ここにはベストセラー作家や今話題の小説がずらりと並んでいて、僕はちらりと覗くのだが、手に取ることなく奥にあるレジカウンターへ進む。興味があるのは僕の為に役立つ本だ。地図であったり、歴史書であったり、ノンフィクションであったり——。
とりわけ僕にはホープ・リヴィングストンの著書が良く馴染む。
彼は一般的に行儀の悪さが有名で常に冷笑されてきた。ジーパンの後ろポケットにソフトクリームのコーンを入れたり、床屋で陰毛を整えたり、用を足したあと一ドル札で拭いてピザ釜に焼べたりと、ただ僕が文章から感じる彼自身は違う。彼は人一倍、疑問の答えを探していただけであって、それが少しだけ一般的な常識とかけ離れているだけだと感じている。
「ホープ・リヴィングストン? あまり聞かない人ね」
「そうかい? 君が知らないだけだよ」
「なんか感じが悪いわね……。一冊でいいの? 他に何か買うものはない?」
「ああ、これだけでいいよ」
「もっと買ってくれるとお店も助かるんだけどな」
彼女は皮肉を込めた笑顔で言う。
「いつも何かしら買ってるだろ? 常連様は大事にしろよ」
「ありがとうございます。毎日美味しいコーンスープを頂いています」
僕は彼の絶版を取り寄せた。まだ読んだことのない本当に最後の一冊を本屋に務める彼女に頼み込んで、ようやく昨日届いたという連絡がきた。
リヴィングストンは僕が産まれたその年に、ホワイトハウスの正面でシングル・アクション・アーミーをこめかみに撃ち抜き自殺した。
拳銃を撃ち抜く直前に彼は高らかにこう叫んだと言われている。
『愛とはなんだ? 憎悪とはなんだ?
あれもこれも所詮はコインの表と裏だ!
だがな、私はこのくそったれな世界を愛す!
——それでは、また出逢う陽が昇るまで、ごきげんよう』
1986年7月4日、彼は人生に幕を降ろした。
「それじゃあ僕はビールでも飲みながら本を読むとするよ」
「羨ましい限りね。では良い休日を」
「また来るよ」
「お待ちしています」
リヴィングストンは人生についてこんな風に記してある。
「現実に自由なんて存在しない。理想の恋人が現れないのと同じように」(「風に吹かれて」1967年)
この言葉を初めて聞いたのは『穴貸し』の口から発せられた音で、彼女とセックスをしたあと、水分を補給して、僕が三本目の煙草に火を点けたときにつぶやいた。
短い彼女との思い出はリヴィングストン自身が僕に語りかけた言葉であり、彼女自身の言葉でもあった。
僕はそれから様々な言葉の意味を考えた。
彼は思想家であり、主に民族や信仰、宇宙に関する著書が大半で、たまに理解しがたいスラップスティックな小説を書いたりもして、僕が小説をあまり読んだことがないのは、そんな彼の作品しか読んだことがないからだ。
僕は彼の最後の作品をこうして手にしていることに今——喜びを感じている。
彼の最後の著書、タイトルは『21』だ。
『穴貸し』は今この本を手にしているだろうか? たぶんもう二度と会うことのない彼女のことを考えると、早く彼女の言葉が聞きたくなり足早に『SIX』へ向かった。
「夜明け前が一番暗いわ。これから朝日が昇るというのに」
「そうかい? もうだいぶ明るくなってきてる気がするけどね」
『穴貸し』は僕の手を強く握り、吐息を胸に這わせて言った。
「夜明け前が暗いのは、これから訪れる希望が怖いからなの。リヴィングストンはホープという名前が嫌いだったそうよ。希望なんてない。あるのは空虚な世界、彼は何に疑問を持ってどんな答えを探していたのかしら」
「僕にその答えを求めてるのかい?」
「いいえ、そんなんじゃない。ただ私は分からない疑問の答えを知りたいの。考えて、考えて……、想像力こそ答えを導く全てだと思うの」
長い沈黙が訪れた。人生を振り返り、染色体を遡り蓄積された数億年の記憶を辿ることができるくらい長い時間、僕らは言葉を発することなく天井を見上げていた。
僕は彼女が今何を考えているか——手に取るようにはっきりと分かっていた。
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