あらかじめ決められた恋人たちへ「5'」
第2章「記憶・歯車・意識的特異点とプラグアンドプレイ」
☆
『こんな夢を見た。
瞼が自然とあがるのを私は認識した。いつからここに居るのか、何故居るのか。私は知らない。ただ確認できるのは遥か麓に大地を見下ろしていること、木製の椅子が二つにテーブルが一つ。天板の木目は美しい。もちろん、何の木か知らないが、たぶん檜だろう。大体良質な木材で作られたモノは檜と相場が決まっている。無知な私の持論だ。
私はその椅子の片側に座り、テーブルと誰も居ない椅子の正面に位置している。
陽射しは強いが冷たい風が吹き抜け私は瞼を閉じた。
再び瞼が上がると一匹の羊がそこに居た。
「どちら様でしょうか?」
私は何故羊に声を掛けようと思ったのか疑問を持ったが、この羊は必ず答えてくれると確信があった。案の定「嫌だな。天使だよ」と答えた。
私は、ああ天使か、と素直にそう思った。
「この姿だとちょっと天使っぽくないね。ちょっと待ってね」
ボンっと煙が出たかと思うとこれぞ天使だ、と認識出来る姿に変身した。
「天空は怖くないかい?」と聞かれたので私は「慣れました」と言った。
コーヒーか紅茶どちらがいいか? と訊ねられ、私はお茶がいいと言う。何気なくお茶を頼んだが、そもそもここは何処だ? 平然としているとはいえ、地に足が付かないのは何とも心許ない。そもそも天使とは何だ? 一匹の羊と思ったが、今は一人の男性の天使、そもそも一人でいいのだろうか? それとも一匹、空を飛んでいるから一羽なのか? そもそも、そもそも、そもそも。
そんな私の意思を察したのか、天使は言った。
「あなたは新しい命を授かりました。まだかたちは成していませんが、確かにその肉体にあなたは宿りました。ここではあなたが本当のあなたに成るまで、あなたの世界がどんな場所なのか生前世界旅行でこれから旅立つ未来をご覧頂けます」
天使はそう言った。
なんだか楽しそうだと思った。私は、日本人に似た思考があるのは日本人として産まれるのかと訊ねたが、天使は「私の趣味だ」と言った。女の姿をしているのも、この天使の好みだからだそうだ。
「そろそろ行きますか?」の問いかけに私は「はい」と言った。
真赤なポルシェを何処からともなく取り出す。そういえば先ほどのお茶も何処から持ってきたのだろうと、私は少し不安に思いながらも、まあいいかと思った。天使は「どうせならデート気分を味わいながら旅行しよう」と言った。
この天使は誑しだ。沢山の美人な天使の涙を奪ったに違いないと感じた。天使はアクセルを全開にする。
宇宙から眺める地球は雪化粧をして、頬は赤土のチークに、緑の洋服を着て、人口のアクセサリー、オーロラのストールが綺麗だ。稲妻が脈を打ち、壮大な海は呼吸をしていた。女だ。それも飛びっきり恋をしているに違いない。だからこんなにも美しく魅力的な世界で生命は輝いている。
それから私たちは大気圏を抜け大地へ向かった。イエローストーンにナイアガラ。アンコール・ワットに東大寺。ロンドン塔にイスタンブール。砂漠は広かった。
この記憶が一つの肉体として産まれ出た瞬間、忘れてしまうことが少し悲しかった。それでも未来はある。次は触れることが出来る。空気を感じることが出来る。涙を流すことが出来る。そう思うと頬が緩んだ。
「残念な知らせがあるんだ」天使が深刻な表情で私に言った。
「先ほどあなたはお亡くなりになりました。あなたの宿った肉体は生命活動を休止、肉体、魂ともに破棄されることが決定しました。大変恐縮ですが現世へはまた来世で」
天使が急に改まり告げると。私はなんだそうかと思いその場に座り込んだ。
「また次回、生前世界旅行でお会いしましょう」
天使が言うと私は自然と瞼がさがるのを認識した』とボクはこの夢に名付けた。
夢を読み解くことにも慣れてきたある日ボクはこんなことを考えていた。
文字を消費して何かを買うという表現は間違ってるのかもしれない。
ナキヤミが色彩詩として働く理由はただ一つ、自身の命の名前を数万に及ぶ真っ白い本の中から探し出すことに他ならない。つまりは、一つ一つ丁寧に観察して内換記に支払われた文字は、ボク自身の夢ではないはずだ。もしそれが命の名前である夢であるのなら、人間と取引きをするはずがないと思ったからだ。
なぜ最後の『お』の文字は一定に達すると必ず消費しなければならないのか、ボクは一つの仮説を立てた。
これは循環なのだ。
黒色の夢は決まって死を連想させる物語。
死とは肉体的、精神的な消滅。そして新たな輪廻の始まりでもある。
黄色から始まり黒色で終わる夢物語。
『あ』から始まり『お』で終わるナキヤミの仮想通貨。
これらを消費することで、新たな物語をこの世界に創り出しているのではないのか?
事実、ボクたちの仕事場にある本はどれだけ観察しても、どれだけ整理しても次の日にはまた新たな本が積み重ねられている。
そして『お』を取引きした人間はその日以降、街で見かけることは決してない。
それらを踏まえた上で消費して何かを買うのではなく、最終的に人間に対して死を下す死神(または神)のような存在なのかもしれないと考えた。
文字の消費とはナキヤミの生活を支えることではなく、人間に人生を与えているのではないのか、不自由なのは人間と話しができずに、使い古したものしか与えられないボクたちではなく、彼ら人間なのではないのか?
そして『お』を取引きとして選んだ人間は人生の終焉を迎え、古い本としてボクらが観察、新たな人間の人生を進ませる。
そんな仮説を考えたとき、命の名前を古い本から探し出すということは、容易ではないことのように思えた。
なぜなら、この仮説が正しければ世界にボクは二人いるかもしれないからだ。
人間としての僕と、そして今ここに存在するナキヤミとしてのボク。
それは産まれる前に夢で見た僕なのだろうか?
人間としての僕の人生が終わっていなければ、ボクの命の名前は今、目の前に積み重ねられた本の中には存在しないということになる。
考えれば考えるほど深みにはまり、考えはまとまらない。ヒカリにこのことを話したとき彼女はこんなことを言った。
「そんなことは考えなくていいのよ。私たちは今、この瞬間を生きればいいの。仕事をして、生活をして泣いて笑ってお腹いっぱいご飯を食べて寝る。そして私たちは目覚めの日を迎える。その準備をするためにこの世界を生きることだけ考えればいいの」
ちょうど東に沈みかけた太陽が西から昇り出したときだった。
「考えることに意味のないことなのかな?」ボクは言った。
「そんなことはないわ。それに意味があるのだとすれば、それは意味のあることでしかなくて、意味のないことはこの世界には存在しないのよ。それが意味のあること、意味のないことと理解することは私たちには理解できないことで、理解する必要もないのよ。私たちは命の名前を探せばいいだけなのよ」
「そんなもんなのか?」ボクは言った。「そんなもんよ」彼女は言った。
18
この世界には太陽が二つある。
一つ目の太陽が東に沈みかけた頃、二つ目の太陽が西から昇り出す。ちょうど二つの太陽が一直線に結ばれる時間帯を『色弱の夕凪』とボクたちは呼んでいた。
この時間帯に西の岬から眺める雲海は淡い淡い虹色で満たされて、微かに、本当に微かに揺れ動く雲が、生命の鼓動を育むようにボクを誘った。
色弱の夕凪が訪れる度に『お』を消費して交換したカワサキGPZ900Rで灰色の長い尻尾をなびかせながらボクは岬を目指した。
「バイクなんて運転できるの?」
家にバイクが届いたときヒカリはボクに訊ねた。
「たぶん——できる気がするんだ。本当に気がするだけなんだけどね」
ボクが言うとヒカリは笑った。
そして思った通り、不思議とバイクの運転ができた。
風を切るバイクだけがこの世界唯一の風であり、灰色の尻尾をなびかせているこの瞬間だけが、この世界唯一自由な場所のような気がした。
空は呑み込まれるような深い——深いブルー、遠くに反転する街の明かりが産まれたばかりの星空のように輝いて、気が付けば消えていた。
二分の一日目はこんな風に始まる。
そしてもう一度東の空に太陽が沈むとき、まっ暗な夜が訪れるのだ。
暗い、暗い夜。本当に暗い夜が始まる。
第二章「終」
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