なぜ団塊問題は若者に冷たいのか〜自己責任論の底辺に流れる、努力すれば報われた理由への無理解〜
何につけても自己責任論というのはでますが、そういうことを言い出す人の最たる勘違いは「自分は努力を絶え間なかったから成功した」という成功体験に起因します。
努力は大切ですが、努力の仕方、努力するタイミングなど含めて大抵は運、めぐり合わせというのがあります。
日本においてはどうにも今の団塊の世代にこの自己責任論を言い出す人がかなり多い。何につけても若い世代に苦労させてなんぼ、くらいのことを言う人が後をたたないのですが、それは戦争を経験していない、敗戦後貧乏だったがそれは子供の頃で、むしろそこからの青年期以降は東洋の奇跡という大成功体験をとてつもない人数で同時体験してしまったことで、努力すれば報われることが当然というコンセンサスが共有されている恐ろしい世代という側面が強くあります。
団塊の世代は狭義では団塊世代(1947年(昭和22年)〜1949年(昭和24年)生まれ)の3年間、3年間の合計出生数は約806万人と規定されますが、この前後も加えればさらに数は大きくなりますね。既に65歳以上に達している1955年までの出生数だけでも約2000万人おり、これらの世代は非常に日本の良い時代を生きた方々です。
それは彼らがあまりにいい時代を生きた、つまりは努力すれば報われる確率が極めて高いラッキーな世界有数の人口ボーナス期に当たっていたことなどに起因するわけですが、そういうラッキーは置いといてどうにも努力をしたから、頑張ったからここまでの日本になったんだ、とありがたいと思え、というある意味一種の宗教的な思い込みをしていたりします。
その結果、地域でも若者たちにパシリのような仕事をさせたりしながら、自己責任論を振りかざしたりしつつ、本当に無駄などうでもいいことに時間を費やしたりする代表選手が今は団塊の世代です。これまでの年寄り世代よりたちが悪いのは、人数が多い。一種の世論形成になってしまうことです。あらゆる世代の一つの声ではなく、マジョリティになってしまう。
団塊の世代の社会的意義は大量に安い労働力かつ消費力になったことですが、それが全て逆回転して社会保障の重しとなり、いつまでも椅子を譲らず意思決定を遅らせ、若者には自己責任求めたり、シルバー民主主義の一つの大きな集団になるなど、今の日本において間違った社会課題解決方法を承認する原因を担っています。
地域でも寝ぼけたことを退職後にあれこれ動かそうとしたり、会議に都度都度顔を表しては無益なことしか言わない元県庁・市役所OBの爺さんとか、持株会でボロ儲けした地元有力企業のOBとか、色々といるのですが、全くもってそれを社会的に投資しようとする人は一握りです。
日本の富の多くを高齢世代が保有しているわけですが、寄付をしているのは40代が最大。お金のない20代より平均値で寄付していないのが70代だったりするのです。(悲しい
いい時代を生きた人たちは今の若者たちが自分たちの時代には比較にならないほどに、給与はあがらず、社会保障は重たくなっている事実にすら気づきません。努力でどうにもならない銀行金利もあがらないから資本所得も得られず、かつてのようにゆうちょに預けて定期預金で6%みたい金利はもらえるわけもなく、何の活路も見いだせない状況になっているわけです。
さらに言えば、団塊の世代の責任で相当に日本社会は構造的に崩れていて、今の追い詰められている状況の原因は今の若者たちではなく、団塊の世代にあるといっても過言ではありません。少子化も、若者の貧困も、全ての責任は団塊の世代が出産育児するタイミングに行った行動と、彼らが社会の中堅からトップを担った平成を通じた意思決定の数々が招いた大失敗によるところが多いのです。
なぜか若者たちの責任のようになすりつけられたりしますが、30年前に姿かたちがなかったり、まだ小学生中学生だった世代に何ができたでしょうか。その時に何をしたのか、改めてこのような日本にしてしまった団塊の世代はもう少し客観的に自分たちの所業を見つめ直してほしいと思います。
○ 年寄りが意思決定から排除され、若者ばかりの日本に生まれた幸運が全て
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