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二宮尊徳は天保の大飢饉で何をしたのか。現代でも学ぶべき4つの備え

緊急事態宣言が発令され、日本国内も色々と殺伐とした時代になりました。ウイルスの直接的な問題というよりは、それを予防しなくてはならないということでの社会的行動制約によって間接的に発生した経済への打撃は、令和の大飢饉と言ってもいいような、大不況の入り口に我々は立っているのでは否かとさえ思えるほどです。

こんなときに、江戸時代後期に活躍した二宮尊徳の取り組みについて改めて考え、今後我々はどうしていくべきなのか。またコロナショックから一定の回復を得た後にも、いつ何時、またこのようなショックが来るとは限らないわけで、そのための備えも改めて考えていきたいと思うところです。

さて、有名なエピソードを原著「報徳記」の第2巻、「凶年に当り熱く救荒の道を行う」から引用、解説したいと思います。天保の大飢饉に直面した際に二宮尊徳が行ったと言われる仕法についてです。

天保の大飢饉は、学校の歴史の授業でも学んだかと思いますが、一応復習ということで。当時の日本の推計人口は1833年からの5年間で125万2000人減少しているとされています。それでも天明の大飢饉で教訓を得て、幕府は米を蓄え、江戸市中には配ったりしていたそうです。が、その米もっていかれていた大坂は大変なことになり、大塩平八郎の乱につながるという。ある意味の動乱のきっかけになるのが、この手の恐慌ですね。

○ 天保の大飢饉を予言し笑われた?二宮尊徳

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