目に見えない世界をどう捉える?現実と非現実の狭間で
昨日の記事で、目に見えない世界は現世で依存しても、何もしてくれない、って話を書いた。
じゃあ、目に見えない世界は意味がないかって言うと、どうやらそういうものでもないらしい。
類人猿が目に見えない世界を感じているかどうかはわからないけれども、5万年前に地球上に存在した人類種であるネアンデルタール人の墓からは、花を一緒に埋葬した形跡があるという。
花を埋葬するというのは、死者に対して何らかの思いを抱き続けていて、死者を弔う気持ちをすでに持っていたことを意味する。人は死んだらすべてが終わり、と考えていたわけではなかったといことは、霊魂のような存在を感じていたのだろう。
病院などでは、深夜に人がいないはずの部屋から子供の笑い声が聞こえる、廊下を歩いていたら肩を叩かれたのに振り返っても誰もいなかった、などという現象は珍しくないそうだ。
普段からそういうものにビクビクしている人が、神経過敏になってちょっとした物音などに反応してしまう、というだけでなく、霊など信じていないはずの人でも、変な現象に出会うことが多いというのだから、やはりこの世には、何か現世の人間とは違う、目に見えない存在もいるのかもしれない。
目に見えない何かがいるのかもしれないけれども、でもただそこにいるだけなんだろうね。実際に、お金に困っている人が「お金をちょうだい」って頼んでお金を運んでくれるわけでもなく、お腹空いている人に食料をくれるわけでもなく、ただ、死んだのに成仏できない何かがそこに漂っているだけ。
人は豊かすぎる想像力を持っているがゆえに、人から聞いた心霊話を想像力豊かに膨らませすぎて、その結果、アチラコチラで妙な怪談や心霊話が自然発生的に作られて、都市伝説的に広がって行くのだろうと思う。
実際に、心霊検証なんか見ていても、ちょっとしたラップ音や変な光が映ることはあっても、語られているようなおどろおどろしい現象が撮影の現場で起きているところは見たことがない。
だとすれば、そうそう現世で生きる人間はそうそう怖がる必要もないのだろう。
目に見えない世界は、時として怖いものであるけれども、時として、ご先祖様とのつながりを感じたり、亡くなった身近な人とのつながりを感じたりもできる貴重な感覚でもある。
また、どこにいるのかわからないけれども、神や仏が見守っていてくれる、という感覚は、どこかで人をホッとさせるものがあるような気もする。
それが、神社やお寺をお参りすると心が安まる、ということなのかもしれない。
目に見えない世界は遠くに在りて思うもの、今は自分の生きる力で生き抜いて、いずれ自分も魂だけの存在になった時に、正々堂々とそこの世界に足を踏み入れられるように、ということかもしれないと感じている。
(キャッチ画像はChatGPTで生成作成しました。)