悩んだり腹が立ったりするのも生きていればこそ
日々、いろいろなことを考える。
ネクラなグジグジ人間の私の考えることだから、明るいことはほとんどない。タイムマネジメントが下手なせいで、日々、やろうと思っていたことの半分もできずに終わってしまう毎日。
そこにイライラしていると、昔からの恨みつらみが腹の底から沸いてきて、頭の中は相変わらずの罵詈雑言の嵐が吹き荒れてしまう。
でもね、こうやって毎日の生活に苦労するのも、恨みつらみを頭の中で駆け巡らせることができるのも、生きていればこそなんだよね、って思う。
生きているからこそ悩みが生まれて、生きていればこそ欲が出てきて、欲があるからこそ腹も立つ。
死んでしまったら、こんな風に悩んだり苦しんだりすることもできなくなる。
死んでしまったら、この苦しみや悩みは全部なくなるのだろうか?そんなこと、死んだ人間から聞くことはできないから、生きている此岸にいる立場から想像することしかできない。
死後の世界のことをいろいろと書いた本や宗教で語られる事はあるけれども、完全に三途の川を渡った先から戻ってきた人はいないはずだ。
臨死体験をしたという人の多くは、三途の川の手前か途中で引き返している。三途の川を渡りきってしまったら、どうやら戻れなくなるらしい。川の向こう岸の彼岸は一体どんな世界なのかは、やっぱり誰にもわからない。
どうやら、ニンゲンの脳の構造には、死ぬ直前に死ぬのを怖がらなくて済むように、お花畑や三途の川をきれいな音楽や風景とともに見せる機能があるらしい。
昔、立花 隆の「臨死体験」を読んだ時に、脳に電極を刺してどのような反応が起こるのかを調べたら、全く機能が解明されていない部位で臨死体験と全く同じ反応があったという話が書いてあった。
そうだとしたら、死に際に三途の川からご先祖様がお迎えに来る現象や、お花畑に流れるきれいな音楽の中を進んでいって心地が良い、って現象は、死後の世界の真実を表しているのではなく、単なる脳内現象にしか過ぎない可能性もあるということだ。
その後が全くゼロの闇と無の世界で、自分の存在が全く消えてしまうのなら問題ないのだが、そうとはいえない心霊現象もある。
心霊となって現れるものは、自分が死んだことに気がついていないか、深い心残りや恨みを残してしまったために、魂が成仏できないものだという。
それならば、せめて自分が死んでから、怨霊や地縛霊にならずに済むように、せめて与えられた生を生きるしかないんだろうな、と思う。
まあ、なんだかしんどくて毎日が過ぎ去っていくだけだけど、明日もこうやってのんびりマイペースでワタワタしながら、気がついたら日が沈んでいた、という生活をおくるんだろうな、という自分がいるだけ。
(キャッチ画像はChatGPTで生成作成しました。)