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【読書日記】〈道草〉を忘れてしまった大人たちへ(『ボクの道草』)
日々の運動不足解消のために近所を散歩することがあります。
といっても、一度決めたルートをただ歩くだけ。
なかば義務的に歩いているので、
「きょうはこっちの道を通ってみよう」
「きょうはあえて遠回りしてみよう」
そんなことを思うことはありません。
そういう寄り道を、「道草」と言いますよね。
みなさんは最近「道草」しましたか?
もしかしたら「道草」って、そもそも子どもの特権みたいなものだと私は思うんです。
私も思い返せば、長い通学路をあえて遠回りして帰ることがありました。
「あそこは怖い犬がいるからあえてこっちの道を通ろう」
「○○ちゃんと長く話していたいからゆっくり遠回りをしよう」
「あそこには変なひとがよくうろついているから近づかない……」
そして帰りが遅くなると、大人からこんなことを言われてしまうかもしれません。
「こら! どこで道草食ってたの!?」
だけど大人は、日々忙しく、道草を食べる暇なんてないですよね。
出来る限り最短ルートで、検索サイトが示す最短の乗り換えで、最速で帰宅したい。
大人はいつの間にか「道草の方法」すら忘れてしまう。
だけどやっぱり、時には大人も道草を食べるべきなんだとも思います。
そんなことを思い出させてくれた小説を一篇ご紹介させていただきます。
三奇紋乃介さまの『ボクの道草』という短編小説です。
主人公は、小学4年生の「ボク」。
もう一人の主人公は、「ボク」より少し活発な、同級生の「イトちゃん」。
二人が学校を出て、帰宅するまでの物語。
石ころをけりながら、汚れたボールを見つけてはしゃぎながら、二人にしか通じない妄想の世界に浸りながら、ただただ家に帰る。
なのに私には、小さな二人の、小さな世界の、立派な大冒険の物語に思えました。
というか、小学生の頃って、日常もコロッと大冒険に変わることってありますよね。
そのきっかけが、まさに「道草」なのです。
大げさに言えば、「道草」は子どもにとって「異世界」への扉なのかもしれません。
例えば、普段「あえて」気にしないようにしている土手の高い草むら。
「いけるかな?」
「いけるやろ」
「子供じゃ無理やないん」
「いけるやろ」
いつもは「なぜか」通らない、少し不気味な家までの近道。
「神社の横を抜けていくんやけど、知らんやろ」
「わからんけど、危なくないん?」
「危なくないよ」
二人の行く道は、大人からすればさして怖くもないし興味もない道。もしくは、面倒なことにならないよう避けたい道でもあります。
だけど二人は、子どもらしい「軽率な勇敢」で、しっかり少し怖い目にもあってしまう。
だけど二人は、へっちゃらなのです。
なぜなら二人は、一人じゃないから。
私は勝手に読みながら、小説内の季節は「秋」なのかなと思いました。
多分ごく単純に、今がなんとも「道草」しがいのある気持ちのいい秋だからという理由で「秋」を感じたのだと思います。
だけど冒頭で、二人が互いのクラスの担任の話をしているところから察するに、季節は「春」なのかもしれません。
だけど、私は読む人はあえて、自分の思い浮かべたい季節で読んでもいいような気がしています(勝手にすみません!)。
そんな風に、好きな季節を思い浮かべてしまうくらい、二人の道草案内人が愛らしくて、どんどん読者の前を走って行ってしまうんです。それがなんとも心地いい。
「おーい、こっちだよ。道草ってこうするんだぜ」
読んでいると、そんな二人の声が、聞こえてきそうです。
今年もあと二か月をきりました。
これからどんどんお仕事や私生活が忙しなくなるかもしれませんし、
寒くなると、そもそも家から出るのも億劫になります。
そんな「道草」を忘れがちな方は、ぜひ、「ボク」と「イトちゃん」に会いに行って、「道草の方法」を思い出してみてはどうでしょうか。
以上です。
拙い感想文で恐縮ですが、お読みいただきありがとうございました。
そして三奇紋乃介さま、素敵な小説をありがとうございます。