【創作小説】書道の成績が0点の高校生が平安貴族の幽霊と出会う話(3/6)
夕方頃、担任の佐藤先生から電話がかかってきた。
『八色ごめんなぁー!』
そのうるささにスマホを耳からぐんっと遠ざける。体育教師の佐藤先生の声量はグラウンドにいるはずなのに、四階まで聞こえてくるほど凄まじい。
『書道の高井先生、一学期終わりで産休に入ってさぁ、八色の補習は芸術科の先生たちに代行頼んでたらしいんだけど、その、なんというか……やり取りがうまくいかなかったらしくて。ほら、美術の田村先生も音楽の岩田先生も部活ガチだから超忙しいじゃん? って知らない? そりゃそうか、はっはっはっ! ってことで今日が補習の一日目って誰も分かってなくってさぁ!』
その後もだらだらと、佐藤先生は何かを言っていたが、とりあえず、明日からはちゃんと代理の先生が来るから、補習を受けに来てほしい、という話だった。
先生との電話が退屈で、「はぁ」と相槌だけはしながら、ベランダに出る。
母の勤める地方銀行の社宅の狭いベランダ。ひび割れたコンクリートと朽ちかけた朝顔栽培キット。
佐藤先生の遠い声を聞き流しながら、橙色の空と灰色の海を眺める。
『おーい、八色、聞いてる? 怒ってる?』
「大丈夫です。行きます。学校」
(私には、確かめないといけないことがあるから)
『さすが秀才、八色透花! 一年五組の星! サンキューサンキュウー!』
まさか「産休」とかけてないよね?
創作小説『少女と言祝の筆』
第三話 言祝
七月二十三日、火曜日。昨日より早く家を出た。
気分は最悪。体調も最悪。
その理由は補習がだるいというのもあるが——、
『幽霊のなにがいいかって、夏が全然暑くないの! お気に入りの衣をいくら襲ねてもいいし化粧もはげない! ま、でも~、冬の寒いのは好きだから、寒さを感じないのはちょっと無粋ね~』
このお喋りな平安貴族のせいだ。
昨晩、この幽霊が自身の歴史(およそ千年分)を、夜通し私に語ってくれたせいで、眠れなかったのだ。この数週間の不眠生活に慣れていたとはいえ、さすがに昨日は殺意が湧いた。相手は幽霊だけど。
——書道教室の幽霊(仮称)千年の歴史(簡略版)。
一、生まれた年の年号は「康保」。西暦で言うと九六四年から九六八年。死んだ年は内緒。
(私が見る限り、彼女の風貌は二十代ぐらいの歳に見える。彼女が私に「そういう姿」を見せているのか、それとも私が彼女の声と話しぶりから勝手に彼女を「そういう姿」として見ているのかは、よく分からない)
二、死に際、お気に入りの筆を握っていたことから、魂がその筆に宿ってしまった。
三、彼女はその筆をとった人間の体を借り、自由に文字を書くことが出来る。
四、その奇妙な筆は、時に「神の筆」だと崇められ、時に「呪いの筆」だと恐れられ、そのせいで筆の持ち主は転々としたそうだ。
灘街駅前には、丁度良くバスが来ていた。駆け足でバスに乗り込む。
学校前の「団地口」までのバスの乗客は、ほとんどが灘が丘の生徒で、夏休みだからか、おそらく部活に行くのだろう、スポーツウェアの生徒ばかりだ。
四十分ほどで、バスは団地口に着いた。
『下衆の皆さんは大変ね。どうしてあの車は上まで乗せてくれないの?』
背後霊に笑われながら、なんとか書道教室の前にたどり着く。
こめかみから伝う汗を水色のスポーツタオルで押し止め、私は扉を開けた。
開けてすぐに、穏やかな風を感じた。
誰もいないはずなのに、教室の窓が全て開け放たれていた。四台の扇風機も、ださい音を出しながら懸命に稼働している。
そういえば、今日は書道教室の鍵が開いていた。
もしかして、佐藤先生か誰かが、気を遣ってくれたのか。そんな小さな疑問もありつつ、私は今日、この教室に来た理由を思い出す。
「ねぇ……、昨日言ってたやつ、どういう意味? この部屋のことだよね?」
私の問いかけに、彼女は笑みを浮かべながら首を横に振った。そして私を案内するように重そうな着物をすすすと引きずり、彼女は軽やかに奥へと進む。
彼女が指を指したのは、準備室につながるドアだった。
私は恐る恐るドアノブを回し、中をゆっくりと覗きこむ。
特に変わった様子は無い。
大きな棚に冷蔵庫、事務机に筆掛け。今日も窓が半分開けられ、風がカーテンを揺らす——。
「……あっ」
『そうよ。私たちが昨日〈言祝〉をしたのは、この子』
窓際に置かれた紫陽花が、まるで失った時間を取り戻したかのように、美しい紫の小さな花を咲かせていた。
「この紫陽花、枯れかけてたのに。花びらは茶色くなってたし、水をやってもいない。なのに、なんで……」
『昨日、あなたは祈ったでしょう? この紫陽花が、再び美しく咲くことを』
そう言う彼女の右手が紫陽花に触れようとするのを目で追いながら、私は頷く。
昨日私は、枯れかけた花と自分を重ね、「この花の美しい姿を見たい」と、確かに思った。
『花も木々も人も、この世のあらゆるものに魂は宿っている。魂はだれかの〈祈り〉によって枯れることもあれば、枯れた魂を再び咲かすこともある。枯らす祈りを〈呪い〉というのなら、咲かす祈りを〈祝い〉という』
言葉の呪いを〈呪詛〉というなら、言葉の祝いを——。
『〈言祝〉という』
彼女は振り返り、私に微笑む。自信ありげなその顔に不快感は抱かない。むしろ、〈高貴〉と形容したくなる、そんな感情を覚える。
「でも……、私はただ筆をとって、文字を書いただけで……。それだけで、花をよみがえらせるようなことが、できるの?」
『〈書〉という漢字があるでしょう』
彼女は袖から遠慮がちに見える細く長い指で、宙に字を書きながら言葉を続ける。
『〈書〉という漢字は〈聿〉と〈者〉を上下にかさねた文字。〈聿〉は筆を手に持つさま。〈者〉は呪符を入れた器。〈曰〉が器に見えるでしょう? ……まぁ、見えるの。〈聿〉と〈者〉で〈書〉。されば〈書〉の本当のすがたは、〈祈り〉や〈呪い〉でしかるべき。もう分かるでしょう。わたしとあなたできのう〈書〉にしたあの十九字の言の葉は、枯れた紫陽花の魂を祝うことで、ながい夜を越えさせ、朝焼けをあびるまでの新たな命を吹き込んだということ——』
私は、小さく、小さくだが、心が震えるのを感じた。
いつ以来だろう。怒りや失望以外で、心が震えたのは。
心が震えた勢いで、言葉が零れだす。
思わず、昨日紡いだ言葉を、口に出す。
「その四片、ゆめゆめ散らず、暁に、咲け……」
そうか——四片は紫陽花の花であり、そして宵なのだ。
夜も朝も、すなわちずっとずっと、咲き続けてほしいという、祈りの歌……。
「すごい、この筆……」
『すごいのはわたし』
「あ、はい。そうですか……」
私はバッグから桐箱を取り出し、蓋を開ける。綺麗に収まった、白い小筆。
「……私、もっと、この筆を、使ってみたい」
『もちろん。わたしもそのために、この世に残った』
私は準備室の棚を開け、半紙を数枚引き抜いた。書道教室に戻り、硯、墨、下敷き、文鎮、書道に必要なものをすべて用意し、窓際の机に座る。
昨日とは違う。私は呪いにも、幽霊にも操られてはいない。
これは、自分の意志だ。
丸い硯に水を数滴たらし、墨を磨る。
墨のかおりを嗅ぐ。すずしげな匂い。汗でべたつく体が、どうでもよくなっていく。
(〈言祝〉……、よく分からないけど、つまり祈れば、願いが叶うってことでしょ?)
——私の、願いは……!
『……』
「……」
『……なに? それ。なんて読むの』
「えっ。読めないの? そんな難しい漢字じゃないでしょ?」
私が半紙に書いた文字、それは——。
「世界平和」
『せかいへいわぁ?』
そっか……、平安時代には「世界平和」なんて四字熟語、無いんだ。確か歴史の授業で、明治時代に欧米の思想がやってきてから、「自由」とか「平等」みたいな熟語がつくられたって、先生が言っていた。「世界平和」も、最近できた概念だったのか……。
私は気の抜けたため息をついて、スカートのポケットからスマホを取り出し、ネットニュースの一覧を見る。
ガザの「人道地区」攻撃 70人死亡。
米国、大統領選挙。国内の分断深刻化。
教育、医療現場での過労自殺問題。
政治家の裏金問題。地方議員のハラスメント問題。芸能人の不倫……。
まったくもって「世界平和」とは言えない、殺伐とした画面を裏向けて、スマホを机に乱暴に置いた。
『なに、なに、なに、その箱は! いま、文字が動いて、絵が消えたり、出てきたり! ちょっと!』
「……なんかさ、平安貴族って、なんでも妖怪のせいにしたり、凄く繊細だったり、もっとゆっくり喋るんだと思ってたよ」
『ふふっ。わたしは、今めかしきおなごなの』
得意げそうに彼女は言う。別に褒めてたわけじゃないけど、嬉しそうだから、いいか……。
『このせかいへいわって言葉が、あなたの〈ゆめ〉なの?』
「え、うん……まぁ」
そう言われると、急激に恥ずかしくなってきた。「嘘だよ、嘘。ふざけただけ」と、言いそうになる。
でも、嘘じゃない。
自分の本心を、自分で〈嘘つき〉呼ばわりして訂正することほど、惨めなことはない。
一度深く呼吸をして、彼女に私は、出来る限りの説明をする。
「〈世界〉っていうのは、〈世〉って字があるとおり、〈この世〉とか、すべての場所……を意味するのかな。〈界〉っていうのは、正直よくわかんない。でも、なんとなく〈広い空間〉みたいな意味だと思う。そして〈平和〉って言うのは……」
私は一呼吸置いて、続ける。
「これは私の考える意味だけど、誰も〈死にたい〉なんて思ってなくて、誰も、誰かに殺されたりしないことだと思う」
私のたどたどしい説明に、彼女は深く何度も頷いた。
『もしかして……、その〈世界平和〉という言葉が、〈空っぽ〉なのかもしれない』
「空っぽ?」
『貴方の言う〈へいわ〉はきっと、たやすきものではないでしょう。いつの世も、人はつまらぬ争いで殺し合い、疫病で、虫けらのように死ぬ。何千年と続いてきた人の業を、この世から無くすことなんて、まことにできることなの?』
黙るしかなかった。
この世界は、おかしい。なんの根拠もない差別と迫害を皆が皆見ないふりして、世界は回り続けている。そんな世界を指導するのは、自分さえ豊かであればよくて、そのために他人を道具のように扱う、政治家や資本家たち。
だけど、それじゃあ具体的にどう世界を変えればいいかなんて、結局私は分かっていない。教室の隅で、ただただ愚痴を言うことしかできない子ども——それが私だった。
自分の幼さと不甲斐なさに、無性に苛立つ。唇を噛み、体中を掻きむしりたくなる。さっきまで不思議と感じなかった暑さが、倍になって私を襲う。
そんな見苦しい私を見ても、彼女は馬鹿にするでもなく、慰めるでもなく、ただ、何かに対してようやく納得のいったような表情をしていた。
『……さればこそ、あなたとわたしの縁がつながったのね』
瞬間、彼女の言葉を追うように、窓から夏風が強く教室に吹き込み、私の前髪をさらりと揺らした。
風のおかげか、それとも、彼女の含みのある不思議な響きをもった言葉のおかげか、さっきまでの苛立ちが消え、心が凪になっていく。
(それって、どういうこと……?)
彼女に尋ねようとした瞬間、私の心臓が跳ねた。
書道教室の扉が開いたのだ。
(続く)