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「しょうがないな」の世界がひらく無償性と無畏施
「しょうがないな」の関係性、というのがあると思います。「しょうがないな〜、手伝ってやるか」という感覚に象徴される関係性です。たとえば友人が困っているとき、報酬があるわけでもないのに「しょうがないな」と言いながら手を差し伸べる。その瞬間、私たちは互いを、単なる記号や利害関係で結ばれた存在ではなく、「ちゃんと声を持った人間」だと認め合っているのではないでしょうか。
そのさりげない行為から、仏教の「無畏施(むいせ)」や、オーストリア出身の思想家イヴァン・イリイチの「無償性(Gratuity)」を思い出します。無畏施は、「恐れや不安を取り除く布施」のこと。イリイチの無償性は、見返りを求めない行為や関係性を重視する思想です。一見すると大げさな概念に見えますが、実は日常にひそむ「しょうがないな」にこそ、これらが隠れていると思うのです。
「無畏施」とイリイチの「無償性」
仏教でいう布施には、お金やモノを施す「財施(ざいせ)」、仏の教えを説く「法施(ほうせ)」などがありますが、そこに「無畏施」が加わります。これは文字通り“恐れや不安を取り除く”行為のこと。誰かが挑戦や冒険をしたいとき、「失敗したらどうしよう」「笑われたら怖い」と思っていても、「大丈夫だよ、困ったら助けるからさ」と声をかけてもらえるだけで、恐れが軽くなることがあります。そんな行為や空気そのものが「無畏施」なのだと理解しています。
一方、イヴァン・イリイチは、近代社会があらゆるものを市場化し、制度化してきたことで、人々が本来持っていた自由な相互扶助能力を失っていないか、と問いかけました。そこに対して提唱したのが「無償性」という概念です。お金や契約に基づかない、“純粋な贈与”や“見返りを求めない関係”こそ、人間を豊かにする――彼はそう説きます。
この「無畏施」と「無償性」を日常に落とし込んでみると、「しょうがないな、手伝ってあげるよ」という心持ちや行動そのものが、相手の不安を取り除き、見返りを求めない関係を生む鍵になっていると気づきます。
「しょうがないな」に宿る仲間性
もう少し深掘りしてみます。誰かに「しょうがないな」と言うとき、そこには二つのニュアンスがあります。一つは若干の軽い“あきれ”や“ため息”めいた気持ち。もう一つは、「あなたを放っておけない」「役に立てるなら助けたい」という優しさです。この二つが微妙に混ざり合うことで、あたたかくも不思議な空気が生まれます。カチッとした契約でもないし、もっと気軽な「贈りあい」に近い。
そこには、経済原理で言うところの「利害」や「損得」だけでは測れない価値があるのではないでしょうか。むしろ、見返りよりも「しょうがないな〜」という一声によって相手が救われ、こちらも相手をいとおしく思う。その場にあるのは、一種の“仲間意識”です。
以前から時々引用する、Humble Leadership(謙虚なリーダーシップ)の論考で、「コミュニケーションには三段階がある」とよく言われます。機能や取引だけで済ませる Transactional、相手を固有の声をもった存在として扱う Personize、そして深い信頼関係を育む Intimate。相手をただの歯車や記号としてではなく、「この人と向き合いたい」と思えば、自然と時間をかけたコミュニケーションが生まれます。しかし、そのためには「しょうがないな」のような、緩やかでも“親和性がある”接点が欠かせないのだと感じます。
「時間をかける」ことの有限性
AIエージェント同士のやり取りなら、一瞬で大量のデータ交換が可能でしょう。でも、人間はそうはいかない。私たちは、一度に一つの声しか出せず、一人ひとり相手と対面するには時間を使わなければなりません。その有限性こそが、実は大切なのではないかと思います。
「仲間になるには、一緒に時間を過ごすしかない」。そう考えると、コミュニケーションにかける時間には希少性があり、逆にだからこそ“無償で手を貸す行為”がかけがえのないものとして輝く。見返りが期待できない相手とあえて時間を共有する。その行為に無償性が宿り、互いの恐れがほどけていくのだろう、と想像しています。
心理学では、私たちが認知的に安定した関係を保てる上限がダンバー数(150人程度)と言われます。それは、まさに“時間と注意”が有限であるがゆえかもしれません。一人の相手に向き合うためには、頭と心の資源を投資しなければならない。だからこそ、誰彼構わず「しょうがないな〜」が成立するわけではないし、だからこそ、その範囲で生まれる関係は貴重でもあります。
百姓的自力再生産力と「しょうがないな」の重なり
「百姓的自力再生産力」という言葉を使うことがあります。かつての百姓は、いざ田畑を耕せば最低限の食料を自給できるという意識を持っていました。これは、仮に大きなシステムが止まっても、自力で立て直せるレジリエンスの一つの形です。さらに、近隣同士が「しょうがないな〜、手伝ってやるか」と互いに助け合う風土があれば、貨幣や制度に縛られすぎない生活基盤が築けることを意味します。
イリイチが「市場経済に取り込まれず、人々が自由に助け合う社会」を夢見たのも、この“百姓的”な感覚に近いのではないでしょうか。国家や大企業に頼りきりにならず、貨幣や契約でガチガチに固める前に、「ちょっと手を貸すよ」「必要なくなったら返してね」くらいのゆるやかな関係が広がる世界。それが、無畏施や無償性につながる大事な一歩だと感じます。
「四方よし」とは、いったい何か
伝統的に「三方よし」と言われる近江商人の哲学は、売り手・買い手・世間に良い形を追求するものとして有名です。ところが地元の古い商人からは「実は四方よしと言われていた」と教わった、という話もあります。そこに加わるのは「仏法よし」――見えない存在や亡くなった方々、さらには自然や万物を含めた敬いを加えたものです。
この「四方よし」は、仲間意識の範囲をどこまでも拡張していく発想とも重なると思うのです。いま目に見える相手だけでなく、先祖や将来世代、山や川、草木までも“仲間”とみなして「しょうがないな〜」と関わる。その姿勢が無畏施の優しさと相性が良く、イリイチの言う無償性とも共鳴します。
「遊」という漢字に宿る、先祖の見守り
ちなみに、白川静さんが「最も好きな漢字」として挙げたのが「遊」です。この字はもともと「祖先の霊が宿った旗ざおを持って未知の地へ向かう人」の形から来ているとされ、「あそぶ」という今の意味にもつながっています。つまり、見守ってくれる存在があるからこそ、安心して未知に踏み出せる。子どもが公園ではしゃぎ回るのも、近くに保護者がいる安心感があるからこそ、自由に遊べるわけです。
先祖や神仏、あるいは家族や仲間の見守りがあると感じられれば、人は大きな挑戦にも踏み出しやすくなるのでしょう。そこには「しょうがないな〜、困ったら助けてあげる」という無畏施があり、返ってこなくてもいいやと思える無償性が機能しています。経済的な合理性や契約の枠を超えたところで、そうした“見守り”の力をどこまで意識できるかが大切に思えます。
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