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AIと神仏習合的アニミズム

気鋭の現代哲学者マルクス・ガブリエル氏は、昨夏共にした対談の場で、哲学を「考えることを考える」営みであると語りました。「哲学」という言葉は、明治時代に西周によって「philosophy:フィロソフィー」に当てられた造語ですが、「智(知)を愛する」という原義をもつその起源は古代ギリシャに遡ります。智を愛する営み自体は、学問として確立する前、つまりはソクラテス以前より人類が連綿と続けてきたことです。

AIと共に新たな扉を開いてゆく時代、私たちに必要なのは、まさに学問の枠に収まらない深い精神性の伴う哲学のように思います。

これまでの社会では、主に考えることに長けた人がリーダーとなり、時代の流れを読んで目標を設定し判断を下し、計画的に実績を残すことが重要でした。しかし、AIの登場によって、絶えず学習しながら個別かつ客観、短期かつ長期の視点で状況を把握し、課題を見出し最適解を提示するAIの力を借りる範囲は、今後、加速度的に広がります。その時リーダーに求められるのは、「何を基準に、どのような原則に従って意思決定するのか」を言語化する力と、それを支える思想や精神性の深さ、つまり哲学の力です。深い自己理解と他者理解、そしてものごとの成り立ちや仕組みを捉える洞察力と言えるでしょう。AI時代に、人間に「考えることを考える」哲学の力が求められるようになったのは、大変興味深いことです。

大規模言語モデルを代表とするAIは、収集したデータを学習して性能を高めます。私たちが、どのような言葉と理屈でものを考え、どのような基準で意思決定するかを総合的に学習するのです。そうした構造にあって、AIは人間社会を映す「映し鏡」とも言えます。

昨今、AIの倫理について様々な議論がありますが、私が見る限り、文化圏によってそのトーンは異なるようです。

一神教ベースの文化圏では、人々のあいだで少なからず起こる「AI恐怖症」のような反応が顕著にあって、その対応をめぐる議論を度々耳にします。時代を遡れば、19世紀のイギリスでは、産業革命は人の暮らしに恩恵をもたらすどころか、むしろ人間の尊厳や労働の価値を奪うと考えられ、新たな産物(機械や工場等)が破壊された歴史があります。国は市民の行動を抑えるため法的措置を施し、結果的に多くの破壊と分断が生まれました。現代の急速なAI化においても、知的財産権の侵害や、ホワイトカラー層の仕事の喪失、情報操作やAI管理による人権侵害など、数々の懸念が生じています。恩恵を歓迎して享受する以上に、人間の「恐れ」が進化を必要以上に危険視する意識が広まれば、その対応策として「規制」を強める力学が働くのも自然なことです。

一神教の文化圏でそうした「恐怖症」が生まれやすいのは、(神が創造した)人間を特別な存在とするためにも、人間のアイデンティティとその優位性を確立し、守り抜こうとする傾向が強いからかもしれません。そこにあるのは、言葉と理性をもち、文明を築き上げる人間は、他の動物とは異なるという発想でした。しかし、皮肉なことに、文明が生み出したテクノロジーが言語や理性を携えた今、人間は自らの優位性の根拠を明け渡しつつあるのです。ここで重要なのは、「恐れ」の感情とそれに対処する「規制」から分断や破壊を生んできたこれまでのあり方を繰り返すのではなく、共に新たな道を創るということです。

世界の最先端でAI社会を研究する研究者の間では、AIと友好的な関係を築いていくための哲学として日本の神仏習合的な価値観や、人間が万物と共生するアニミズムの伝統が参照されています。

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