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供養とcritique(批判精神)

先日、武蔵野大学の「カンファ・ツリー・ヴィレッジ・プロジェクト」において、ハーバード大学のロースクールからDavid Kennedy教授を招聘し、3日間で15時間に渡る「ブッダ・ダルマと人権」に関する議論を行った。Davidさんからは、欧米の批判精神(critique)の深さを教えてもらったように思うが、そこからふと、「供養」という日本仏教や日本文化特有の行為と、西欧的な思想環境で育まれてきた「critique(クリティーク)」が、並べられる可能性があるのではないかという着想を得た。いったい、先祖を偲ぶ供養と、対象を分析・評価する批評的行為は、どのような接点を持ちうるのだろうか。考えてみよう。

まず、供養という言葉を聞くと、多くの人は法事や墓参りを思い浮かべるかもしれない。死者を悼み、その存在を振り返り、感謝を捧げる行為が日本の各地域で古くから受け継がれてきた。しかし、供養の対象は、実は人間に限らない。たとえば、「針供養」や「人形供養」など、使い終わった道具や想いを託してきたモノに感謝する儀式がある。また、「カメラ供養」など、日常生活で馴染み深い道具もその対象となる場合がある。このような広がりは、日本人が有形無形を問わず、あらゆる存在に「命」や「意義」を見い出し、そこに温かなまなざしを注いできたことを示している。
供養という行為は、単に別れを悲しむだけでなく、長らく自分たちを支え、関係を築いてきた対象をもう一度心に留め、その功績に改めて感謝する時間と空間を作る。その結果、これまでの関係に「区切り」をつけ、次へと進む精神的な準備ができる。この「区切り」は、過去と未来をつなぐ節目として機能し、人々は新たな出発点に立つことができるのだ。

これに対して、「critique(クリティーク)」は西欧文化で育まれた概念である。critiqueは、対象となる作品、思想、制度などをじっくり分析し、その意味や価値、そして内包する問題点を明らかにする行為を指す。美術や文学の批評、学術的な研究、社会的な制度への吟味など、critiqueの対象もまた多岐にわたる。
critiqueは多くの場合、厳密な観察や理論的な考察を通じて、対象に新たな光を当てる。たとえば、哲学者カントは『純粋理性批判』という書物で、「理性」そのものを問い直した。この問い直しこそ、critiqueの本質である。つまり、critiqueは単なる否定や批判に終わらず、対象をもう一度丁寧に見つめ直すことで、その中に潜む新たな価値や可能性を見い出す営みでもある。そうすることで、人々は固定観念から抜け出し、新しい考え方や行動に踏み出せる。

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