私がみる循環葬 <前編>
人のヒストリーやアイデンティティを支える基盤には、国、民族、地域コミュニティー、職業といった所属先とも言える拠り所がある。私たちは生まれて間もなく、何処の誰であるかの属性と、依るべきところ、帰るべきところを、生まれた土地の社会から授かっている。その最小単位に「家」がある。
家や家系は、唯一無二の縁に他ならない。けれど、人の一生を支える無数の縁を思えば、その強さや深さは、一生を振り返って初めて浮かび上がるようなものかもしれない。始まりも終わりもなく、結ばれほどけ、交わり離れを繰り返す、変わり続けるものでもある。縁の尊さは、果てしなく、縁の上にある私たちの存在は、本来、社会が設けた枠組みには収まらないのだ。
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」と、ポール・ゴーギャンは人間の姿を描いたが、人が生きる物語やアイデンティティも、因果と縁に応じて変わり続けるものではないか。
現代社会の枠組みや概念と、生きて感じる実体感とのあいだに生じる違和感が、今、顕になりつつある。
死をめぐる解放
社会の仕組みを構築し、そのシステムが機能するには、構成要素(個人)が仕組みに収まっていることは必要条件だろう。一人として取りこぼさないためにも、戸籍の管理は欠かせない。スムーズで合理的な運用のため、ここ数年で、急速に日頃の行動もシステムに紐づけられている。
特に都市部においては、そうした公共インフラの恩恵を受けて、私たちの日々の暮らしは成り立っている。有り難く時代の流れを受け入れつつも、個人を個人として特定され続けることに、どこか窮屈さを感じる自分がいるのは、人の社会が、自然のあり方から乖離している故だろうか。
10年ほど前のことだったか、米国コロンビア大学の建築家らが立ち上げた「DeathLAB(デスラボ=死の研究所)」の記事を目にした。記事は、死者を弔う場を都市空間に取り入れ、マンハッタンの街を再構築しようという提案だった。「死を民主化せよ」というフレーズは、自分には迫力をもって響いたのを覚えいている(後に、金沢21世紀美術館でDeathLABが特集された企画展のタイトルともなった)。この時はまだ、物珍しい取り組みとして取り上げられた話題の一つに過ぎなかったが、こうした動きが芽生える背景にどのような意識があるのか、関心を向けていた。
日本国内の葬送事情をみながら浮かび上がってきたのは、死に際しての「火葬」と「家系」からの解放というテーマであった。火葬や家族を大切にしながらも、選択肢が求められている。
今でこそ、日本における葬送の99%以上は公共の火葬場での火葬であるが、かつては土葬も多くみられた。近代化は、人口増加や都市部への人口集中を伴い、確かな衛生管理や土地の確保の必要性から、社会インフラとしてのしかるべき葬送が社会に導入された。誰もが火葬場で火葬され、家系の墓石に入るようになったのは大正時代以降のことという。1915年(大正4年)の火葬率は36.2%(『土葬の村』高橋繁行著)であったのが、戦後の「生活改善運動」の普及や火葬ビジネスの広まりにより、民間葬による土葬は激減した。
こんなにも歴史は浅いにも拘らず、私たちは死を迎えると、ほぼ自動的に火葬され、家系の墓石に埋葬されるのがスタンダードとなっている。火葬後の遺灰の埋葬の仕方については、樹木葬や海洋葬のように墓石意外のさまざまな方法が取り入れられている。私が問い直したいのは、葬送方法というよりも、私たちと社会の "死の引き受け方" そのものである。
社会が導入した仕組みによって、死の引き受け方が規定されているとも言えるだろうか。「死」をほどくことは、「生」をほどき、「今」をほどき、「私」をほどく。
「収まるところ」から「還るところ」へ
現代の葬送法が、ゴミ処理場の仕組みと類似しているのは皮肉だが、事実、焼却炉を要する社会インフラとして、その構造も、環境対策や住民配慮といった周辺要素も共通点は多い。いずれも最新設備を導入しながら、所用時間の短縮化、無公害化、自動制御化と、社会に適した合理的なシステムが確立されている。
技術開発とAIによって、より明るくスムーズに、よりスマートに処理されていくものごとは、今後も増えてゆくだろう。技術開発には並々ならぬ努力と知恵と、私たちの資源が注がれている。こうして社会に還元されることは有り難いことに他ならないが、同時に、半ば自動的に処理されてゆくように感じてしまうプロセスに、なんとも言えない刹那を感じるのである。
人の終わりと、ものの終わり。人間社会が便宜上括る「始まりと終わり」。その構造に、本来は収まらないものを収めてきたのが近代化でもあった。「管理に適した合理性」はあくまでも「手立て」として必要でも、存在の扱い方や、死生観、その器となる精神性までもが、「手立て」に回収されてきたようでもある。死をもって、所有や所属、人間社会の概念からほどかれることを望む声があっても当然だろう。
因果と縁は、代謝と循環のなかではたらいている。すべては互いに依り合い、環境要素のなかで代謝をしながら巡り続ける循環にある。
「収まるべき場所」に収まっていた生命が望む、「然なるところへ」という願い。自然の恵に生かしていただいた肉体は、いずれ自然にお返ししたい。そう思う人が、増えている。
- 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか
- いずれ"私"がほどけて彼岸へかへるとき、この肉体は、homeの地球へ
-「収まるところ」から「還るところ」へ
所属からの解放を望むのは、interbeingに存在する(関係性のうえに立ち現れる)私たちの、本能からの声ではないか。
いたって自然で切実な問いと願いを受けとめる器が、今、求められている。
<後編へつづく>
<Reference>
WIRED
「死を民主化せよ:コロンビア大学院建築学部「デスラボ」の挑戦」https://wired.jp/2014/12/28/deathlab-vol14/
DEEP CARE LAB
「土に”埋める”から、土に”還る”へ 土葬の衰退とヒューマン・コンポスティング」
https://note.com/deepcarelab/n/n6d4d07e054a2
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