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自然科学の宗教性、また、論文を書くことと、小説を書くこと

「自然科学の命題は、反証されない限りは、たんなる宗教的信仰であるにすぎない。」

このことは、例えば、朝、私が通勤に自動車を運転しているとき、その自動車の内燃機関が、熱力学の法則を、「正しいものとして」検証し続けている(そして、反証しない)ことによって、さらに、私自身の「熱力学の法則」に対する宗教的信仰が強まっている、ということになる。

同じように、仕事中に、ノートパソコンを使用しているときも、ノートパソコンが支障なく動き続けていることによって、何らかの、様々な、物理学の法則が、常に、反証されることもなく、「正しいもの」として検証され続けている。

その結果、ますます、「反証されない自然科学の法則」に対する宗教的信仰が深まっていくことになる。

そのような作用により、中世ヨーロッパ社会や現代のイスラム原理主義社会よりも、はるかに深刻に、私たちの「世俗社会」は、(こういった)宗教的信仰に完全に侵されており、私たちは、それを疑うことをすら考えてみることさえもない。

(また、資本主義経済という、私たちの社会の別の側面についても、それは、貨幣物神・資本物神を崇拝する宗教的信仰なのであり、私たちは、そういった信仰をなんら疑わずに、かつ同時に、この「世俗化された社会」を生きている、と考えている。)

こういうことが、何か、もう少しきちんとした論文に書けないか、と思っていたのだけれども、もう少し考えると、私自身が、「そういったことを考えるという個人的な経験」をしている、ということに気が付いた。

そういった、私の経験は、もしかしたら、小説という形式で書いてもよいのかもしれない、ということを考えるようになった。

私は、「小説を読む」ということが、正直なところ、あまりよく分からない。様々な登場人物が現れる、物語が語られる、そういった小説の要素に、普遍性というものを見出せないように思うというか、なんといってよいのか分からないが、論文あるいは評論で、明瞭に言語化されていれば、それでよいのではないかという思いがあり、小説という形式は、こういっては適切ではないのかもしれないが、ちょっと、(何かを語るというあり方において)迂遠ではないか、という考え方しかできないで、これまで生きてきたのである。

けれども、上で述べたように、自然科学の法則に関わることを、論文でも、小説でも、同じように語れるのではないか、ということを考え付いたことで、むしろ、小説という形式で書いてみることで、私が考える「小説を読むということの分からなさ」が、もしかしたら、少しでも、軽減できるのではないか、ということに思い至った。

でも、当分の間は、いろいろと生活が忙しいので、たぶん、何もしないと思うし、そのうちに、こういったことを考えたことも、ほとんど忘れてしまうかもしれないけれども。

追記:あるいは、こういう言い方もできる。人間の行うあらゆる内省、思索は、およそすべて、たんなる個人的な体験でしかない。たんなる個人的な経験に帰着できる。それゆえ、人間の考えるあらゆることは、結局のところ、小説という形式でしか、表現することができない。(論文や評論を構成しているような)「客観的な言明」が存在する、と考えること自体が妄想なのだ、と。

追記2:note を見ていると、優秀な自然科学系の学生さんの記事を、よく見かける。とても、専門的で、私から見ると、非常に難しい内容を記事にしている。こういう人たちを見て、私が思うのは、たとえば、中世ヨーロッパにおいては、こういった人種がいたとして、それは、たとえば、優秀な神学生だったり、優秀なスコラ哲学者だったりしたようなものなのだろう、ということだ。中世ヨーロッパの神学の議論は、今日から見ると、(精密で、煩雑で、そして些末で)とても理解しがたく、今日的な意味を見出すことは、あまり広い形ではなされていない。私にとっては、そういった議論は(仮に理解できるとして)むしろ好ましく、興味深いものではあるが。それと同様に、現代の自然科学系の学生や研究者の議論は、ずっと後の時代から振り返ると、もしかすれば歴史の中に埋もれてしまうような内容では、ないのだろうか。私は、今のところ、高校生のやるような数学しかできないし、物理に至っては、高校生の物理基礎で、苦しんでいる。そのくらい、何もわかっていない、とても愚かな人間だ。そういう愚かな人間から見ると、優秀な人間というのも、果たして、どのくらい優秀なのだろうか、ということを疑問に思ってしまう。私は、そもそも、何かを理解する、ということが、わからない、そういう人間である。だから、いろいろと良く理解できてしまう人を見ると、どうしても、疑わしいものを感じてしまう。そんなに、ものごとというものは、果たして、理解できるものなのだろうか、と。

参考:こういった記事を見つけた。評論と文学(小説)を教えることを対比させている。評論しか読まないという現状に対する危惧の表明。同意できるかというと、良くわからないが、私自身、「文学(小説)を読む」ということが、良くわからないので、すこし参考になった気がした。
高校3年間を通して「羅生門」しか読まなくていいのか…灘中学の国語科教師が懸念する"文学離れのマズさ" 実用重視で危機に瀕する国語のカリキュラム | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)


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