プロの演芸評論家とは?【ほぼ無料】
先に誤解のないように言うておきますが、
私は落語を見た人が好き勝手に感想を言うのは自由だと思っています。
「面白くない・好きでない・○○が下手くそ」など酷評も、「言論の自由」においては問題ないと思います。
(虚偽事実をもとにした誹謗中傷はダメですが)
そのかわり、批評を書いた人は、別の人からも批評されるという覚悟は必要です。何かを見た感想がアウトプットされた時点で、「その感想も1つの世に出た作品」なので、それについての感想を他人に述べられるのは至極当然なことです。そして、言論の自由ですから、それはそれで全く問題ないと思っています。(それこそ批評を書かれた作者がそれに反論するのも自由でしょう)
そういう前提の上で、いや、そういう前提だからこそ、
現代においては「プロと素人では演芸批評は変わりやすい」というのが、
今回の記事です。
【プロの演芸評論家とは?】
ずいぶん昔から「一億総評論家」時代と言われています。
ある意味、これは昔と違って、「全ての消費者が自分の感想を表に出せる場がある」、そして「その感想が他の消費者の目につく」というだけの話です。
落語の評論というのは、もはや「食べログ」みたいなもので、
「事実の裏付け」部分以外は、結局、個人の感想になってしまうと思います。
では、「プロの演芸評論」と「素人の演芸評論」は何が違うのか?
それは「評論をしてるのがプロかどうか」だけだと思います。
つまり、「プロの演芸評論家の感想が、プロの評論」であり、
「素人の評論家の感想が、素人の評論」です(笑)
↓
そして「プロ」とは何か?
簡潔に言えば、税務申告で「その評論によって対価を得て、売上を上げている人」ということです。
※ひょっとすると
「いやいやプロと言うのは、文筆家としての矜持として・・・、技術として・・・、それ一本で食べてて・・・、」とか他の定義もあるのかもしれませんが、今回の記事においては、この「売上」基準で、演芸評論家の「プロかどうか」の判定とさせて頂きます。(今や、一億総評論家時代なので、線引きをそこにさせて頂きます)
今回、この記事で私が書くキモは、以下です。
①プロの演芸評論家なら基本は「褒め芸」になるはずである。
②なぜなら「クサす」のは、素人=観客がやるから。
さらにそこから導き出される答えは以下です。
【①】褒めない演芸評論家は「プロとして、それでよいのですか?」と皆から経済的に心配されるはず
【②】SNSで、できるだけ褒めようとする(クサす部分は排除する)落語ファンは、【①】の演芸評論家以上に「落語界」の発展を願ってくれている。あるいは合理的集団戦術を理解してくれている
ということです。つまり、「公」においては「褒め芸」が落語市場の拡大に重要になるのです。
こう書くと、
「おいおい、笑福亭たまは、いつも悪口めいたことばっかり言うてるのに大丈夫か?」
と、矛盾を感じる人もいるかもしれません。でもよく考えて下さい。
私は基本的にオフィシャルの場で喋ってるのは、
「誰か個人の”芸”を腐すことはしない(営業妨害はしない)」ようにしています。私が言うてるのは「一般論」「傾向と対策」「歴史的事実の確認」「事実や噂話」「噂話などをもとにした推論」「困った話(しくじり話・失敗談→エピソード)」などです。いわば「演芸批評」ではないのです。私がやってるのは「演芸”界”批評」です。もちろん人物評になる時もあるのかもしれませんが、基本は「世界分析」をしようとしています。
【悪口を言う演芸評論家】(絶滅危惧種?)
昔はプロの演芸評論家などが、新聞や雑誌などで落語家の悪口を言うことはよくあったそうです。
いわゆる演芸評論家の「クサし芸」は、今ではほとんど見られません。
それはなぜでしょうか?
↓
「クサし芸」の本質は、「クサした相手よりも自分は立場が上である」という意志表示・誇示することです。この頃の言い方で言えば「マウントを取る」ということです。
つまり、それによって出来るだけ多くの人に、
「自分がいかに優れているかをそのマーケットで示し、そのマーケット内の占有率を高めようとする」戦術とも言えます。
しかし、その「クサした内容が的確で、この人は凄い」と皆が一瞬思ったとしても、その戦術は今はあまり得策ではないのです。
ではなぜ得策でないのでしょうか?
<マーケットの占有から考えると…>
昔はテレビメディアが娯楽の王様であり、テレビ創成期はコンテンツがないのでライブ芸=落語そのものがテレビのコンテンツとして存在できました。そんな古(いにしえ)の時代なら、マウントの取り合いで勝てば、テレビメディアという「当時1つしかないぐらい大きなマーケット」で自分の知名度を上げることができます。もっと言えばマウントの取り合いをすること自体で演芸評論家の知名度をアップできたかもしれません(炎上商法的なやり方です)。
つまり演芸評論家たちはマーケット内で「自分の批評」を見せ合うことで、”マーケット内の陣地の奪い合い”をしていたと言えます。ですから演芸評論家にとって「落語家」は「単なる批評対象」(モノ)でしかなく、消費者に「今誰をお勧めしないか」などと発言しても全く問題ないのです。
しかし、テレビメディアはドンドン、テレビ独自のコンテンツを作るように進化していき、落語はテレビメディアの露出からドンドン消えていきました。そして今や、演芸の世界のマーケット(消費者人口)は非常に小さいものになりました。(テレビすらマーケットを縮小していますが。)
↓
そうなると、もしも、その演芸評論家が”落語界”で高評価を得て消費者から支持された場合、すぐさま独占企業(寡占企業)になるはずです。いわば、演芸のマーケットは小さすぎて、それこそ、どんな演芸評論家であっても、自分のマーケットポジションは、すぐさま一定の占有率を確保する状況=飽和状況になってしまうのです。
その後、演芸評論家が自身の売上や利潤を拡大しようとするなら、「演芸界そのもののマーケット」を拡大せざるをえなくなります。
↓
つまり、最初は「マーケット内の陣地の奪い合い」をするのですが、飽和状況になると「自分が所属するマーケットそのものを拡大する」ことが商売的な戦略として必要になります。
そして、先ほども書きましたように、これは「プロの演芸評論家」の話です。「●●は△△の弟子」とか「三代目●●の墓はここにある」とかそういう事実確認は別として、「芸への評価」はどこまでいっても好き嫌いになってしまいます。好き放題、悪口を書くなら素人でも書けるのです。それなら趣味でええのです。演芸評論家は”プロ”として、自分のマーケットを拡大をしないことには自分の売上は全く伸びなくなります。(演芸評論においては、マーケットが小さすぎて、利潤を確保することも難しいはずです。)
マーケットを拡大するということは、「落語を知らない人に落語を聞いてもらう(聞きに来てもらう)」ということですから、プロの演芸評論家は、落語を聞いたことのない人に「いかに落語が面白いか」「こんな素晴らしい落語家がいるのか」を紹介することが目的になります。
だから、プロの演芸評論家は、基本は「褒め芸」になるはずなのです。その意味で「褒めない演芸評論家は、プロとして大丈夫なのか?(売上が下がりますけど)」と思ってしまうのです。
また「プロ」として「お金をもらう」という状況なら、事実確認をするにしても、落語家にインタビューするなどせざるをえず、ある種の友好関係を築かないと商売が成立しなくなります。極端な話、観客として観に行くにしても、悪口を書くヤバイ人は主催者から出禁をくらうかもしれませんし…。
もし、あくまで噺家や業界人と話をせず、「落語鑑賞」だけで批評を成立させる場合、一次情報が全て観客と同じ状況になります。そうなると消費者からすると「素人同然ではないか?」などと、それが不安材料になり、その演芸評論家のプロとしての作品(演芸批評)が売れにくくなります。
また落語ファンの多くは「落語って、本当に面白いのに…。落語をもっと多くの人が聞くようになれば良いのに…」と思います。そういう善性のあるお客様にとっては、「酷評をする演芸評論家」は「落語市場を縮小させる人」ですから、その演芸評論家の商品は結果的に売れにくくなると私個人は思うのです。落語ファンの敵ですから。(少なくともその人の批評は落語ファンは買わなくなっていくと思われます。それこそ、落語ファンを無視して、落語を知らない一般大衆にウケる酷評を発表できる演芸評論家なら可能性はあるかもしれませんが、それこそ、その人は落語家でない限り、他の落語家によって化けの皮がはがれされるので、その道も難しいと思われます)
その意味で、「褒めない演芸評論家は、プロとして大丈夫なのか?(売上が下がりますけど)」と心配になるということです。
↑
傾向として、昔は、テレビメディア黄金期にプロデューサーとか放送作家をやってた人が晩年、演芸批評をし出すと「クサし芸」を披露しやすかったです。私が入門した時代はあまりに落語とメディアが乖離しすぎていて、そういう業界人と面識がなかったので、そんな人が出てきて名前を出しても「誰?」という感じになりました。先輩方は「あの人、昔は●●とか番組やってたりしてたんや」「あ、知らん?演芸の本とか出してて、上の人らは割と知ってる思うわ」みたいな感じで、少しお知り合いだったりするようですが、少なくとも私の世代以下は全く知らない異業種の方でしかないです。
そして突然、我々は知らないのに、向こうはなれなれしく接してきて、なおかつ「上から目線でクサして来ます」・・・しかもお客さんですらない(笑)
まあ、もはや「今は昔」という話かもしれません。コロナ禍が終わって、この種の方も絶滅(?激減)した気はします。
その意味で、SNSで、できるだけ褒めようとする(クサす部分は排除する)落語ファンは、「落語界」の発展を願ってくれているんやなぁと思います。ある種、落語家を含めた落語ファンが取るべき「合理的集団戦術」=「落語市場の拡大方法」を理解して下さっているのだと思います。
<精神構造から考えると…>
上記までは商売的な問題として「今どきプロなら悪口は言わない」だろうという話でしたが、悪口を言う演芸評論家は、そもそも商売根性ではないのかもしれません。
悪口を言う演芸評論家も、あくまで”素晴らしい演芸”を広めるためにやっているのかもしれません。つまり、”よくない演芸は駆逐して、良い芸だけを”ということかもしれません。その場合、自分の主観を凄い絶対視する人ということになりますが・・・。
もしくは、ただただ自己満足で芸人をクサしてマウントを取りたいだけの人もいるかもしれません・・・(いたとするなら、ちょっと「かわいそう」な気もしますが)
↓
しかし、そういう人はあまり「プロ」としては難しい時代だと思います。
自分の価値観を絶対視して好き嫌いで悪口だけを言うのは素人の特権(消費者の特権)であり、「プロ(売上を上げる)」という観点において、悪口の批評をするにしては、演芸マーケットは規模が小さすぎるのです。
まとめとして、最近のプロの演芸評論は「演芸マーケットはまだまだ小さいから広げよう!」「こういう人を世に出そう!」になります。誰かをこき下ろしたら一時的にその評論家は偉そうに見えますが、演芸市場という元々小さいパイを更に小さくするだけになります。そういう評論家は時代に乗り遅れた旧世代の演芸評論家に感じるということです。
これを踏まえた上で、色んなコンクールの審査員のコメントを聞くと、「審査員の立場から推測される葛藤や感情」が非常に興味深く思えます。
それでは、私個人が思う「審査員のコメントの傾向と心理分析」を紹介していきます。
【NHK新人落語大賞】審査員
NHK新人落語大賞の審査員は、ここ数年を見ると、5人で
①桂文珍師匠
②柳家権太楼師匠or三遊亭小遊三師匠or金原亭馬生師匠
③片岡鶴太郎さん
④演芸評論家(演芸関係者)
⑤TV局関係者(アナウンサー・プロデューサー)・俳優・演芸評論家など
みたいな感じです。ジャンルで分けると、
①「上方の落語家」
②「江戸の落語家」
③「落語に詳しい芸能人」
④「演芸評論家枠」
⑤「その他」
となります。私は、このNHK新人落語大賞を見る時、それぞれの審査員の立場と属性・性格を勝手に分析して観ています。
そして、コメントと得点を見て、「あぁやっぱり」と思っています(笑)
ここからは有料です。なぜなら勝手な分析であり、妄想と言われても仕方ないからです(笑) しかしながら、これを発表することで、今後はこの分析も通用しなくなるかもしれません。我々は世界を観測しているのですが、その「観測している世界」の中に我々も存在しているので、観測結果を私が発表した時点でその世界に影響を与えてしまうからです。まあ、あくまで、今まではそうだったんではないかと思ってお読みください。そして、以下は全て私個人の推測(妄想?)です。
ここから先は
¥ 500
よろしければサポートお願いいたします!いただいたサポートは、株式会社笑福亭たま事務所の事業資金として使わせていただきます!