無重力空間ですらない村上春樹の世界
現在、8時15分。
4Kのチューインガムくらい薄いテレヴィジョンのモニターは、初めて夜を交わすワタナベと直子が映し出されている。
私はハルキストというわけではないが、それでも村上春樹は、私が今まで読破した数少ない作家の一人だ。大衆性の観点からすると、或いは、日本人からすると、或いは、読書家からすると、村上春樹が好きというのは月並みであろうか。
彼の作品を読む時、これは決して大袈裟な表現ではなく、自分が地上から離れる感覚を覚える。だから例えば、現実から目を背けたい時だったり、そうでなくても周りを囲う空間の雰囲気を変えたい時、私は彼の本を手に取ることが多い。
彼の作品は、その設定がどこであろうと、それはその場所には存在していない。或いは、存在しているのかもしれない。自分にそう思わせるのは何だろうか、と数十冊を通してひたすら考え続けた時に、やはり中心にいるのは彼の女性像だった。
全ての作品を通して、彼の中の女性像は決して手の届かない———つまりそれは地球上でないということにもなり得るが———場所に存在すると解釈している。彼女たちの、どこか寄せ付けない口調。誰に対しても、それは突発的に現れた主人公に対しても、心を許す家族に対しても、全てを開示することは無い。そして、読者である私は、そんな彼女たちに酷く魅了される。
地球上に存在しない女性たちはどこに存在するのだろうか。例えば、地球のレプリカのような、惑星がこの世界に仮に存在しているとして、しかしやはり彼女たちはその惑星にすら存在しない。はたまた、宇宙のどこか、重力無い場所に存在する可能性があるかと言われても、その可能性もきっと無いように思う。彼の作品は彼の作品の中でまとまりがあり、重力の中で構成されている。その再現性の無さ故に、私は彼の作品を通して現実を感じることはなく、彼らを読んでいて、彼のミステリアスな女性像に辿り着こうとする間———やはりそんなことは不可能だが———、読者の自分でさえ地上から離れる瞬間を疑似体験できるように思うのだ。
今も昔も、ある意味では彼の作品に描かれる女性像を追いかけている。やはり、至極当然ではあるが、彼女たちに追いつくことはない。けれどそこに寂しさを感じたことはなく、むしろ逆説的にそれが自分には悦びにさえ思う。もうすぐ折り返しを迎える私の人生は、この追い求める先に辿り着くことはできるのだろか。辿り着いた時、その先に人生が広がっているかどうか確かめにいきたい。
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