見出し画像

教科書では学べない真実~豊川海軍工廠フィールドワーク~

セール中

〜3月12日 23:30

 先日、妻と息子と一緒に、豊川海軍工廠とよかわかいぐんこうしょうの見学会に参加した。「工廠こうしょう」とは耳慣れない言葉だが、軍の工場のことを昔は「工廠」と呼んだそうだ。

 豊川海軍工廠は、日本と中国が戦争をしていた日中戦争のさなかである昭和14(1939)年から戦争で使うための兵器の生産を始めた。当初は機銃部と火工部に始まり、その後、光学部、指揮兵器部・器材部が新たに加わった。これらの工場は91の区画に仕切られた186ヘクタールという広大な敷地の中に整然と並んでいたという。工廠の周りには工廠神社をはじめ、ベッド数1000床の豊川海軍共済病院、工廠で働く工員を育てるための工員養成所がああった。

 豊川海軍工廠は、機銃の生産については日本最大の規模で、東洋一の兵器工場と呼ばれたそうだ。機銃部という部署では零戦ぜろせんなどの航空機や艦船に取り付けるための機銃を生産していた。火工部という部署では機銃の弾丸や弾薬包(薬莢やっきょうに弾丸を取り付けた完成品)が作られた。光学部では、艦船などで使う双眼鏡や距離を測る測距儀という道具などの製造が行われ、指揮兵器部では、高角砲や機銃の射撃装置などが作られた。

 ここでは、多い時には6万人もの人々が交代で働いていた。昭和20(1945)年3月には、12~13歳の国民学校高等科児童までも集められて働かされるようになった。工廠で働いていたのは職員や工員だけではなかった。女子挺身隊を含む徴用工員や動員学徒のように強制的に集められた人がいかに多かったことか。

 アメリカ軍は昭和19(1944)年、上空からに豊川海軍工廠の写真撮影を行い、昭和20年5月19日、爆弾が投下されて約30名が死亡した。さらに、広島に原爆が落とされた翌日の8月7日、B29爆撃機124機とP51戦闘機97機が豊川海軍工廠を襲った。午前10時過ぎからたった30分の間に3,256発もの250キロ爆弾が投下され、2500人以上の命が一瞬にして奪われ、その数倍の人々がケガを負った。この空襲によって、工廠の施設はほとんど破壊され、一面の焼け野原となってしまい、兵器の生産が再開されることのないまま終戦を迎えることとなる。死者の中には、国民学校の生徒や女子挺身隊も含まれ、家族や友人にとてつもない大きな悲しみを与えた。日本が無条件降伏を発表する1週間前に起こった悲劇だった。

 人間が犯した負の遺産の記憶を後世に残すため、豊川海軍工廠のあった場所に整備されたのが「豊川海軍工廠平和公園」だ。公園の面積は約3ヘクタール。平和交流館には工廠関係の説明パネルや写真パネルなどの資料100点以上が常設され、体験者の証言を合わせて当時の状況を実感できるよう工夫されている。また、園内にも貴重な戦争遺跡が遺されていた。豊川海軍工廠は186ヘクタールの広さだったので、平和公園はその60分の1の大きさでしかないのだが、3ヘクタールでもかなり広く感じた。かつての工廠がいかに広大な敷地だったのかがよくわかる。しかしながら、戦後、残りの183ヘクタールのエ廠の跡地は、陸上自衛隊豊川駐屯地、各種企業の工場群、大学の研究施設などに利用されてきた。その中には空襲を免れた建物を再利用したものもあり、現在でもそのいくつかを見ることができる。特に名古屋大学豊川キャンパス内(名古屋大学太陽地球環境研究所豊川分室構内)には、当時の建物・防空壕跡や爆弾の着弾穴などが、当時の環境と大きく変わらずに広範囲に残っており、市街地に残る戦争遣跡としては稀なものである。

 昭和20(1945)年8月7日の空襲で犠牲となった工員の遺体は、犠牲者数が多く、火葬施設が不足したことや、夏場で遺体の腐敗が進むことなどから、諏訪と千両という近隣の場所に急造された墓地に仮埋葬された。しかしながら、戦後に工廠は解散してしまったため、この墓地は管理者を失ってしまい、遺族の心情をよそに広い墓地には雑草すら伸びて、市民の心を暗くしているような状況であったという。
 終戦から6年余りの歳月が経過した昭和26(1951)年6月、県地方復員局残務処理部により、遺族が待ち望んだ遺体の発掘がようやく行われた。発掘は6月1日より諏訪墓地から始まり、多くの遺族がこれに立会った。遺体の中には防空頭巾や鉄兜をかぶったままの姿で発掘されたり、千両墓地では地下水のため腐敗しないでロウ人形のように残っているものもあったそうだ。遺体のほとんどは白骨化し、両墓地に埋葬された2,385柱のうち、身元が判明したのは228柱しかなかったそうだ。発掘に立ち会った遺族はわずかに判別できる着衣の柄や腐敗しない印鑑・時計など当時の所持品に記憶を呼び起こし、変わり果てたわが子、わが夫にむせび泣き、その姿を見た発掘人夫や市吏員はもらい泣きしたという。

 今回、私たちが参加させていただいたフィールドワークは、その名古屋大学豊川キャンパス内に遺る戦争遺跡を訪ねることのできる貴重な機会だ。毎年、12月から2月という時期に3回だけ名古屋大学に入れるチャンスがあることを知り、家族で参加した。

 ガイドの方の説明を聴きながら、平和公園から名古屋大学の敷地に入ると、校内通路沿いに背の低い街路灯らしきものが設置されていた。電柱の高さは4.45メートルの細長い円筒形の鉄筋コンクリート製。工廠内は防火上の理由から電気が地下配線となっており、電線は地下から円筒の電柱の中を通していた。80年以上前の日本人は私たちより平均身長が低かったのだろうか、街路灯も低くて最初は街路灯だとは気付かなかった。折れた電灯の下部が遺っており、電線が地中を通されていたことが分かった。

戦時中の電燈
街灯の電線は地中を走る

 次に旧原料置場と呼ばれる建物の跡を訪れた。旧原料置場は外壁のセメントがはがれ、レンガがむき出しの状態になっていた。建物には無数の弾痕があり、爆撃がいかにすさまじいものだったかがわかるものだった。ガイドさんが木の蓋を見せてくれたのだが、そこには砲弾の信管として使用されていた「八八式信管」という文字が墨書されていた。

 原料倉庫

 その後は、トイレを訪れた。トイレの破壊されようもすさまじいものを感じたが、なんと当時では珍しい水洗式のトイレであったことでさらに驚いた。便器に書かれた文字を見てさらに驚いたことに、現在も有名なTOTO(当時の社名はTOYO-TOKI)だったことがわかった。

爆撃された水洗トイレ
TOTO製の便器

ここから先は

1,459字 / 5画像

セール中
¥450
¥ 320

2月10日 23:30 〜 3月12日 23:30

私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。