『空海』ってこんなすごい人だったんだ!③
奈良国立博物館での生誕1250年記念特別展「空海 ~密教のルーツとマンダラ世界~」の第3弾。
言い伝えでは、空海が42歳の時、弘仁6(815)年に四国霊場を開創したと言われている。有名な説の1つが、弟子の真済がの遺跡を遍歴したことから始まったとされるもの。空海が生きていた平安時代、四国は修行の地とされ、空海自身も四国で修行していた。空海の入定後(死後)、真済ら修行僧がその軌跡を追って旅を始めたのが、四国遍路の原型だという話がある。こうして時代を追うにつれて空海ゆかりの地以外にも修行道の修行地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を修行僧や修験者が実行するようになった。ちなみに、このように僧侶の修行として始まった四国遍路が庶民に広がったのは、室町時代だと言われている。
満濃池は、弘仁12(821)年、空海が築造したと伝えらているが、実際はそれより120年ほど古い大宝年間(701~703年)に、当時の讃岐の国守道守朝臣によって築かれたといわれている。弘仁9(818)年に洪水のため堤防が決壊し、多くの田畑が流出した。このため朝廷は同11年、|
路ノ真人浜継《みちのまびとはまつぐ》を築池使として派遣、修築にあたらせたが、規模が大きいのと、人足も思うように集まらなかったため、着工して1年たっても、完成の見通しが立たなかった。そこで、国司をはじめ関係者が協議した結果、その高徳をうたわれていた讃岐出身の空海にすがるほかはないと決め、朝廷に空海を築池別当として派遣するよう願い出た。
弘仁12年7月に空海が始めた工事は、水圧を防ぐために堤防をアーチ型にし、堤防の崩壊防止のためたたきを造るなど、独創的な技術を駆使し、わずか2ヶ月間の短期間で完成させた。修築にあたり、空海は、堤の東方にある小さな丘の上に座り、毎日護摩をたき、仏陀の加護を祈った。朝廷は空海の功を賞して富寿神宝2万を与え、空海はこれによって神野寺を池の畔に創建した。
弘仁14年(823年)、空海は太政官符より京都の東寺を賜り、その際、この東寺を他宗にも開かれた真言密教の道場とし、名称も「教王護国寺」と改めた。ちなみに現在も宗教法人としては「教王護国寺」で登録されており、
寺内の建造物の国宝・重要文化財指定を表す立て札には、「教王護国寺五重塔」などと記されている。
天長4年(827年)、官僧の最高位である大僧都に任命された空海は、天長5年(828年)、私立の教育施設「綜芸種智院」を開設し、庶民にも教育を受ける機会を作った。当時は、教育の門戸は貴族や郡司の子弟など、一部の人々にしか開かれておらず、空海の設立したこの学校は大変画期的なものだった。綜芸種智院では、仏教以外にも法律・工学・医学・天文学・音楽ありとあらゆることを教えた。残念ながら、資金難や後継者がいなかったことなどで空海の入滅後10年ほどで廃絶してしまうのだが、現在は種智院大学や高野山大学がその流れを受け継いでいる。
また、空海は、仏教だけでなく、博識多才の人であり、唐へ入唐した橘逸勢、嵯峨天皇とともに三筆と呼ばれ、平安京大内裏の「応天門」の額を書いたとき、書き終えて額を門に掲げてみると、「応」の字の点を書き忘れたことに気付き、筆を投げて点を打ったことから「弘法も筆のあやまり」と呼ばれるようになった。
天長8(831)年に病にかかった空海は大僧都を辞めようとしたが、天皇から慰留される。翌年、高野山に隠棲したのだが、病を得てからの空海は、真言密教の基盤強化と存続のために尽力した。承和元(834)年、東大寺真言院において『法華経』と『般若心経秘鍵』を講じた。『般若心経秘鍵』は、空海最後の著作となった。承和2(835)年、宮中で真言宗最高の秘技と言われる後七日御修法を行う。申請してわずか10日で許可をとり、その10日後には修法が開催された。また、年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、亡くなるまでの短い間、特に最後の3ヶ月は濃い活動を行った。
そして、弟子たちに遺言をのこし、同年3月21日に高野山にて逝去するす。享年62歳だった。後の延喜21(921)年に、醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られた。
妻が奈良国立博物館の「空海展」に行きたいと誘ってくれたおかげで、空海という人物の素晴らしさを再認識することができた。ありがたやー。