二宮金次郎像が撤去されている?
全国の小学校で、老朽化や学校立て直しなどに伴い、二宮金次郎像が撤去される現象が進んでいると聴いて驚いた。その背景には、「児童の教育方針にそぐわない」「子どもが働く姿を勧めることはできない」「戦時教育の名残という指摘」「『歩いて本を読むのは危険』という保護者の声」などもあるという。
そもそもなぜ、二宮金次郎像は、全国の小学校に設置されるようになったのでしょうか。
二宮金次郎は江戸後期の農政家であり思想家であり、金次郎は幼名または通称で、本名は尊徳(「そんとく」というが、「たかのり」が本当だとのこと)である。農家に生まれ、苦労しながら没落した家を再興し、その手腕を買われて諸藩ならびにおよそ600もの村を復興。徹底した実践主義者で、農村の生産力に応じて分度を定めて勤倹を説き、その結果としての富を譲り合うという社会的行為に導く「報徳思想」を広め、たくさんの人に慕われたという。
二宮金次郎は明治から昭和初期にかけて「修身」の教科書に一貫して取り上げられ、戦前の「尋常小学校唱歌」では「手本は二宮金次郎」と歌われるまでになった。銅像になったきっかけは、
① 昭和3年に昭和天皇の即位式(御大典)にともなう記念行事が各地で
開かれた。
② 神戸証券取引所理事長夫人が御大典記念事業として、全国83カ所へ二
宮金次郎像を寄付した。
③ 銅器生産日本一の富山県高岡市の鋳造業者が商機とみて、二宮金次郎
像を全国の小学校市場のための産業に発展させた。
④ 昭和3・4年から約10年間、全国の小学校で二宮金次郎像を設置するこ
とが一種の流行の様相を呈した。
こうした時代の流行によって、全国の小学校に二宮金次郎像が広まっていきました。しかしその後、太平洋戦争中には武器の原料とするため金属供出されたり、戦時教育の名残として撤去されたりしてきた。
二宮本家に生まれ、「金次郎研究」をされている二宮康裕氏は、著書『日記・書簡・仕法書・著作から見た二宮金次郎の人生と思想』において、「薪山から薪を伐りだしたことと、書籍購入の記録も考慮すると、『金次郎像』の原型はこの時の金次郎の姿にあったのではなかろうか。<中略>しかし薪の販売は『金次郎像』が示す少年金次郎ではなくて、二五歳の青年金次郎だったのである」と書かれている。
そう考えると、今の時代にそぐわない「勤労少年」であったことや「ながらスマホ」を連想するような姿に描かれたことなど、二宮金次郎の本質や偉業にとっては小さなことで、それをもって二宮金次郎を遠ざけてしまうのはおかしい気がする。私たちがよく知る二宮金次郎像も、時代やその時代に生きる人々の希望に応じて、少年に姿を変えていたのかもしれない。しかし変わらずに伝えられることや伝えていきたいことは、時を超えてあるはずだ。
私が卒業した小学校にも二宮金次郎像があった。今もあるのだろうか。
二宮金次郎の銅像が初めて作られたのは大正時代のことである。なぜこの頃、各地の小学校に設置されたかというと、当時の日本では自主的に国に奉公する国民の育成を進める政策を取っており、自らの力で貧因から立ち直り、幕府のために働いた二宮金次郎はそのモデルとされたためだ。国の政策のためというわけではなく、純粋に勤労・勤勉のモデルとして銅像を設置した小学校もあったと聞く。薪を背負って歩きながら本を読んだ姿が銅像になっているが、実際に二宮全次郎は本を読みながら歩いていたわけではなく、薪を背負って歩きながら、覚えたことを暗唱していたと言われている。しかも、薪のような太いものではなく、細い柴をかついでいたとのことだ。
■名言①
「道徳を忘れた経済は、罪悪である。経済を忘れた道徳は、寝言である。」
■名言②
「貧富の違いは、分度(ぶんど)を守るか失うかによる。」
(資富の違いは、経済面の自分の実力を知り、身の丈に合った生活を守れば豊かになるし、守れなければ意しくなる) ※分度とは収入の範囲内で支出を定めること
■名言③
「遠きをはかる者は富み、近くをはかる者は貧す」
(遠い将来を考えて行動する人は裕福になり、目の前のことしか考えない人は貧しくなる)
■名言④
「世の中は、知恵があっても学があっても、至誠(しせい・誠実さ)と実行がなければ、事は成らない」
現代にもあてはまる素晴らしい言葉だ。