渋澤栄一の社会福祉事業にかける想い
まれにみる博愛の人であった日本資本主義の父・渋澤栄一は、実業界を引退してからも、毎日早朝より相談にくる訪問客を自邸に迎え、先着順で誰でも分け隔てなく接し、親身に対応していた。渋澤は昭和6年11月、東京・飛鳥山の自邸で91年余の生涯を閉じたが、彼の博愛の深さを表す次のような逸話が残されている。
渋澤が91歳の誕生日を迎えてしばらく経ったある真冬の寒い日のこと。前年暮れからの風邪が治らず自邸には主治医も泊り込みで家族と一丸となって必死に看病にあたっていた。そのとき、20名程の人が面会を求めてきた。それは、方面委員(今の民生委員)と社会福祉事業家の代表であった。栄一は、顔ぶれを聞いて、どうしても会うと言い出した。主治医や家族が止めても聞かなかった。そこで、5分と時間を決めた上、来訪者を控え室に通した。栄一は、熱のある身に和服に着替え、白い髭の伸びたままの顔を客の前に現した。その用件は、「今、寒さと餓えに苦しむ窮民が20万人もいるので、政府は救貧法という法律を定めたが、予算がないので一向に救護ができない。是非、栄一の力を貸して欲しい。そして法律に基づいた事業を実施して欲しい」ということであった。
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