世界史から考える日本の外交 ①16世紀後半以前の対外政策
名古屋学院大学教授の鹿毛敏夫教授が著書「世界史の中の戦国大名」をもとにご講演される機会があったので、新たな学びを求めて名古屋学院大学大宝校舎にて開催された国際文化学フェスタ「戦国大名と秀吉・家康の国際戦略」を受講させていただいた。
【1】「倭寇」となった大名たち ~戦国大名と中国~(~1550年代)
1.足利義満による日明貿易
15世紀、元に代わった漢民族王朝の明は、中国を中心とする伝統的な国際秩序の回復を目指し、近隣諸国に朝貢を求めた。応永8(1401)年、室町幕府3代将軍足利義満は国書を明朝の建文帝へ送り、建文帝は足利義満を「日本国王」と認める書を作成した。日本と中国の国交は、奈良・平安の遣唐使の時代以来、およそ500年ぶりに正式に再開に至った。以後、16世紀半ばの戦国時代までの150年間、日本から中国へ遣明船が派遣された。足利義満が日明貿易として、日本国王が明の皇帝へ朝貢することに反対する意見もあったが、使節の滞在費や進貢品の運搬費などの全て明側が負担してくれ、高価な下賜品が与えられるばかりか、公貿易・私貿易の利潤が大変大きいこともあって、資本力を有する大寺社や有力守護大名も遣明船経営者として事業参入を望んだ。
本来、日本において王号は天皇から臣下に与えられるものであり、東アジア圏における政治システムにおいては王号を受けること自体が天皇や皇帝に対する臣従を示した。つまり、足利家が天皇ではなく中華皇帝から王として冊封されたという事実は、日本国天皇に対する文字通りの反逆であった。日本国内の支配権確立のため豊富な資金力を必要としていた義満は、実利のために名分を捨てたと言える。この点は当時から日本国内でも問題となり、義満死後、4代将軍足利義持や前管領の斯波義将らは、応永18(1411)年、貿易を一時停止した。しかし、6代将軍足利義教時代の永享4(1432)年に復活することになる。
2.大内義隆の遣明船独占とその後
応仁の乱以降には、堺を本拠とする管領家の細川氏や、乱で兵庫を得た周防(現在の山口県)の大内氏、博多や堺などの有力商人が遣明船を経営するようになった。大永3(1523)年の寧波の乱の結果、大内氏が権益を握り、天文5(1536)年に大内義隆は遣明船派遣を再開する。周防)の大内氏は31代大内義隆の時期に全盛となり、西日本最大級の大名となった。天文10(1541)年と同19(1550)年に帰朝した遣明船により、大内氏の大名財政に莫大な利益をもたらした。本拠地である周防(山口)は文化的にも爛熟したのだが、天文20(1551)年、家臣の陶隆房による謀反(大寧寺の変)で義隆が自害し、大内氏が滅亡すると、後を継いだ大内義長(大友義鎮の弟)は、弘治2(1556)年と翌年に兄・大友義鎮とともに貿易再開を求める使者を派遣するが、明側は義長を簒奪者と見なしてこれを拒絶。また弘治3(1557)年に義長が防長経略(安芸の戦国大名毛利元就の大内氏領周防・長門侵攻作戦のこと)で討たれて大内氏が名実ともに滅んだことよって、公貿易再開の見込みが絶たれ、東アジアでは商人や倭寇(後期倭寇)による私貿易・密貿易が中心となった。
以降は明の海禁政策の緩和もあり、民間貿易による取引量は勘合貿易時代をも上回る活況となり、のちに16世紀末ごろになると日本人の海外交易の統制の必要性から朱印船による朱印船貿易が行われるようになった。
3.大内義長と大友義鎮(のちの宗麟)の対明外交
弘治2(1556)年、周防(山口)の大内義長(前述の通り大友義鎮の弟)
は、倭寇が捕虜にした明(中国)人を本国に送還し、日本国王の印を用いて朝貢した。豊後(大分)の大友義鎮は、明からの使者を本国まで丁重に護送
し、上表文により倭寇が明に対して犯した罪について謝罪するために朝貢した。実は、大内義長が使用した「日本国王之印」は足利義満が明皇帝から賜った実物(金印)ではなく、日本で作った模造・偽造印(木印)であることがわかっている。一方の「印箱」は…朱漆五面に雲龍文様、中国伝統の銷金技法で制作した勅賜金印箱である。大友義鎮と大内義長の兄弟は、「金印」喪失の事実を悟られないようにするため、模造印影に「日本国昔年奉 大明国勅賜御印壱顆」と記した証状(偽の鑑定書)を作成し、残存していた勅賜金印箱に添えて使者に披露していたことが鹿毛教授の研究で明らかになっている。
また、大友義鎮(宗麟)はキリシタンであったため、その外交の相手が徐々に明(中国)から西欧社会へと転換していく。
【2】対ヨーロッパ外交の開始とその影響(1550~60年代)
1.「国王」と見なされた大名たち
この時代になると、日本の外交の相手は西欧社会へと変化する。対西欧外交は、対中華の朝貢外交ほどの複雑な障壁はなかった。西欧からキリスト教の布教のためにはるばると極東の日本国までやってきたイエズス会は、日本の実質的権力者は大名であり、その領国をある程度独立した「国」と認識した。つまり、大名を「国王」として評価したのだ。例えば、織田信長は「尾張の国王」、大内義隆は「山々の国王」と呼ばれていた。
ヨーロッパに保管されている戦国大名の書状には、以下のような表記がされた文書が多く遺っている。
【3】外交交易対象の転換 ~対中国から対東南アジアへ~ (1570年代)
1.平戸:松浦鎮信とアユタヤ国王
肥前平戸の戦国大名:松浦鎮信が天正5(1577)年に「暹羅国主」(タイ、アユタヤ朝の国王)に宛てた書状案『法印公与暹羅(シャム)国主書案』が松浦史料博物館に遺されている。(以下参照)
松浦鎮信は今後も「年々一年を賜」えば「千歳万歳」と、アユタヤ⇔平戸間で毎年1隻の定期船を就航することを提案している。
2.薩摩:島津義久のカンボジア外交戦略
天正7(1579)年に薩摩の島津義久がカンボジア国王に宛てて国書を送っている。前年の天正6(1578)年11月、日向での「高城・耳川の戦い」にて島津氏が大友氏に勝利した。薩摩の記録には、カンボジアからの使節船が漂着したとされているが、豊後をめざすカンボジア船を拿捕・抑留した可能性が高い。それまで大友氏が結んでいたカンボジアとの外交交易関係を遮断し、新たな九州の覇者としての島津義久がカンボジア国王使節と外交協約を締結したのだ。
1560~80年代の日本の戦国大名は、東南アジアのタイやカンボジア、ヨーロッパのポルトガル・スペイン等、いわゆる外国の国王との間での、ほぼ対等と思える国書の交換や外交・通商協約の締結を模索し、それにそれぞれがおおよそ成功している。
こうした事態は、1550年代以前における、「日本国王」外交権の争奪や偽装といった「痛み」を伴う対中国朝貢外交の実態とは異なり、相互の利害関係に基づく取引をベースとしたフラットでシンプルな善隣外交関係となった。
16世紀後半期、その戦国大名たちの海外に向けた一連の活動が、「中華」に縛られてきた東アジアの伝統的な国際秩序を突き崩す契機になったのだ。