KYってなんだ?
大学で臨床心理学を専攻し、卒業後は教員になろうと漠然と考えていた。しかしながら、世の中の事を頭の中でしか知らず、社会人としての経験もない私が、教員免許を持っているからという状況だけで、未来ある子どもたちに「教えること」が良いのかどうか悩んだ。その上で、数年間の武者修行を目的として企業就職をすることに決めた。企業就職も、教員になってからでは経験できそうにないことにチャレンジしてみようと、私がチャレンジしてみたのは3社。一つが住宅販売の会社、一つが就職情報会社、一つがコンピュータ会社だ。そして、最終的に私が入社したのはコンピュータ会社だった。大学卒業後の2か月間、横浜市の寮に入り、東京で新人社員研修を受けた。この時に新人研修で学んだ文書の書き方や名刺の交換のルールなどをはじめとする「社会人としての基本」は今でも役に立っている。すぐに教員になっていたらこのような研修の機会はなかったであろう。
2か月後、配属先と部署が告げられ、愛知県でコンピュータの営業担当となった。
当時のコンピュータは現在のようなパソコンではなく、大きなCPU専用のボックスを足元に縦に置き、昔のテレビのような大きさのディスプレイとキーボードがコンピュータ専用デスクの上に乗っかっていた。CPUに大きなハードディスクが搭載され、記憶媒体はフロッピィディスクという時代だ。私が担当したのは県内最大の製鉄メーカーで、各工場に併設された情報システム部が営業先だった。工場の生産ラインに設置される産業用コンピュータの大規模な受注をいただき、営業担当としてコンピュータを設置する現場を視察するのも私の仕事だった。
当時、その工場を視察するに際し、現場のあちこちで「KY運動」と書かれた横断幕やポスターを目にした。その当時、「KY」という言葉は「危険予知」という意味で使われていた。少しのミスで大事故につながる怖れがあったからだ。「KY」は福祉業界で使われる「ヒヤリハット」と同様、リスクマネジメントを考えさせる言葉であった。
しかしながら、いつの頃からか、「KY」は、まるで異なる使われ方がされるようになり、「空気を読めない」という言葉の代名詞として若い世代を中心に広く使われるようになってしまった。空気を読むことは、学習して身につけることができるかもしれないが、実際、空気の読めない人が増えている。
昔は何世代もの家族と同居していたり、近所づきあいも頻繁だった。老若男女さまざまな人と接する経験が豊富だった分、空気を読む能力が自然と鍛えられていたのだが、今は社会がそうではなくなっている。一人っ子が増え、祖父母と同居しているという家庭も少なくなり、地域の人たちとの会話どころか、隣近所の人が誰なのかも把握できない。こういう環境で育ってくれば、空気を読む力は経験値としては鍛えられにくい。
かつて読んだアンデルセン童話の「裸の王様」…はたして空気が読めなかったのは王様なのか、それとも「王様ははだかだ!」と叫んだ子どもの方なのか。一般的には、詐欺師に騙された王様、王様に本当のことを言えず同調する家来たちの愚かさに対して、「本当のこと」を言った子どもの正直さが物語の教訓とされている。2010年のことだっただろうか、アンデルセンの書いた「裸の王様」の草稿が見つかり、その草稿では、王様を裸だと言った子どもが王の側近にその場で首をはねられて終わっているそうだ。京都大学の坂本教授は「従来の解釈では、太鼓持ちばかりに囲まれた権力者の滑稽さを揶揄したものと捉えられていたが、むしろ群集心理の中で周りの空気を読むことのできない子どもの愚かさをこそ指摘しようとしたのだろう。アンデルセンのような大の大人が空気の読めない子どもを誉めそやすはずがなく、子どもに向けて空気を読むことの大切さを伝えようとしたと考えるほうが本来自然だった。」と語っている。
「空気を読む」という日本語は素晴らしい言葉だと思う。「その場の雰囲気を察する」という、日本人ならではの奥ゆかしさを秘めた美しい言葉だ。せっかく日本的な美徳に溢れた言葉が、若い世代で使われる「KY」という言葉になると、一転して排他的で陰湿な響きを持つ言葉に変わってしまう。今の若い世代は、個性だとか自由を叫ぶわりに、周りと異なることを極端に気にする。仲間はずれになることを恐れ、みんなと同じ感覚を掴もうと必死になっているように見える。「KY」という言葉を使うことで、周りに同調しながらも個性を追い求める若者たちの屈折した心理状況は気の毒だとさえ感じる。
「空気を読む」と言う言葉には周りへの「思いやり」を感じるが、「おまえKYだな!(=空気を読め!)」という言葉にはそれがない。
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