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治安維持法の犠牲者:伊藤千代子

 毎年お盆のこの時期、「あいち・平和のための戦争展」が名古屋市で開催される。今回は、映画『わが青春つきるとも~伊藤千代子の生涯~』という映画を観る機会に恵まれた。私は伊藤千代子という人を知らなかった。というよりも、恥ずかしながら、関東大震災の後、大杉栄と一緒に殺害された伊藤野枝(甘粕事件)と混同してしまっていた。この歳になって、初めて伊藤千代子という女性の存在を学んだことになった。<字数:6130文字>

 映画を観て感動した。そして、伊藤千代子を知らなかった自分を恥じた。この国では、共産党とか共産主義といういうと蔑視されることがある。かつて、私が児童養護施設の施設長をしていたとき、ある保育園の園長から世の中で何が大切だと思うかと聴かれ、「平和と福祉です」と答えたところ、間髪入れずに「あなた、アカなの?」と問われたことがある。「保育園も福祉施設なのになぁ…」と思ったが、私は右でも左でもないただの日本人だ。人に聞かれれば「私は在日地球人です」と答えている。

 伊藤千代子は1905年(明治38年)7月21日、長野県諏訪郡湖南村(現・諏訪市)に生まれた。 ちょうど日露戦争が終結し、中央線が岡谷まで開通した年だった。2歳で母と死別し、祖母に育てられ、9歳の時、母の実家(岩波家)に引き取られ、 祖父母のもとで育てられた。
 千代子は、もの静かな読書好きの少女だったとい。幼な友達は「背が高くて、とてもきれいな人」 「あだ名は弁天様だった」「庭球をよくやりました」「成績は抜群、面長で色白、 クラス一の美人でした」などと回想している。

 その後、諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高等学校)へ入学した千代子は、 教頭として赴任して来た歌人・土屋文明と出会う。在学中、文明から英語・国語・修身の授業を受け、 文明夫人からは自宅で英語の補習を受けた。千代子が3年生の時、文明は同校の校長に就任し、土屋校長のもと、自由な雰囲気だった同校の校風も、千代子の思想形成に影響を与えた。諏訪高女は、「自由と個性尊重」を信条とする「白樺派文化運動の風」の諏訪における発信地だった。白樺教育とは、「教育勅語の型にはめることなく自我肯定と個性尊重の教育」を指針とした教育である。

 千代子は諏訪高女時代、島崎藤村、ツルゲーネフ、ゴーリキー、トルストイなどを愛読し、ヒューマニズムに開眼。 豊かな知性と感性を身につけた千代子は、卒業式の総代にも選ばれ、文明の記憶に残る生徒だった。 ちょうど千代子卒業の年(1922年)に日本共産党が創立される。 当時の日本は、天皇絶対の専制政治のもと、国民は「臣民」(天皇の家来)とされ、貧困と無権利状態にあった。 千代子は次第に社会の不公正に目覚めていく。千代子は後年、獄中から従妹にあてた手紙で次のように述べている。

 諏訪高女を卒業した千代子は、その後2年間、代用教員として上諏訪町(現・諏訪市)の 高島小学校で教鞭をとる。高島小は、諏訪教育のリーダーを自認する中心校で、 白樺派の教育には批判的、男子には奮闘的精神を、女子には天真さを指導方針とした。

 千代子先生には、〈弁当さえ持って来られない子どもたちに、自分の弁当を分けてやった〉 というエピソードが伝えられていて、温かい心配りが偲ばれる。千代子の諏訪での18年間は、大逆事件・第一次世界大戦から ロシア社会主義革命・米騒動・関東大震災と続く、まさに激動の時代だった。千代子は18年間暮らした故郷・諏訪の地から、いよいよ大きく飛び立つ決心をする。千代子の高島小退職は突然のことだった。千代子が飛び立った先は、遠く離れた東北は仙台。仙台市の尚絅しょうけい女学校英文予科だった。 尚絅女学校は、アメリカの若い女性宣教師たちによる家塾にはじまるミッション・スクールで、民主的で自由な社会人を育てる教育方針のもと、第一次世界大戦後は平和教育が重視された。

 治安維持法と男子普通選挙法がセットで公布された1925年、東京女子大英語専攻部2年に編入学した千代子(20歳)の 東京での活動が始まる。
 治安維持法とは、 共産主義を弾圧する治安立法としてつくられた。「国体を変革」「私有財産制度を否認」などの目的をもって 結社を組織し、加入、協議、宣伝、扇動、財政援助をしたものを処罰する世界にも類例のない結社禁止法で、その特徴は共産主義運動だけでなく「思想そのもの」の弾圧を目的としていた。その後、最高刑を10年から死刑に引き上げ、 ついで「結社の目的を遂行する行為」いっさいを禁止する大改悪をおこなった。当初、共産主義者を対象とするとしていたが、 やがてその弾圧対象は無制限に拡大され、宗教家をはじめ国民各層におよんだ。
 そのころ、社会進歩の道を模索した先進的な学生たちは、科学的社会主義の理論を学びはじめ、1924年には学生社会科学連合会が 結成された。まわりまわって苦しんだ千代子にその苦しみをのりこえさせたのは、社会の矛盾の根源を明らかにし、 解決の道を示した、この科学的社会主義の理論だった。

 千代子は東京女子大に入学した春、他の3人の学生と学内に社会科学研究会を結成し、マルクスの『資本論』、エンゲルスの『空想から科学へ』 などを旺盛に学んだ。学内の社研に参加するなかで思想的に大きく成長。中心メンバーの一人として社研組織拡大のために活動した。 さらに21歳で学外のマルクス主義学習会に参加、22歳で女子学連結成に参画、委員として活動している。

 千代子は後年、郷里の6つ年下の従妹・岩波八千代あての手紙にこう書いた。「これからこの社会に生き、この社会で仕事をしていこうとする青年男女にとって、真に真面目になって生きようとすればするほど、この目の前にある不公平な社会をなんとかよりよいものにしようとする願いは、やむにやまれぬものとなってきます。 私の勉強もそのやむにやまれぬ所から生まれて来ました。」

 学習を通じ社会変革に生きることを決意した千代子が寮を出たのは、女子学生の社研活動を指導していた日本共産党員・浅野晃との結婚のためだった。結婚後、千代子は学外活動に力を注ぐ。野呂栄太郎主宰の「産業労働調査所」や「無産者新聞社」へ足を運んだ。救援会諏訪支部準備会の出した「呼びかけ」(追悼文)には「学校をやめ、 私たちの生活をよくするために自分も東京本所の紡績工場に働きながら勇敢にたたかってくれました」とある。

 帝国主義戦争反対などの主張が「国賊」「非国民」扱いされた時代、郷里の祖父母は千代子の歩んだ道を心配する。これにたいし千代子は、 岩波八千代への手紙に以下のように書いている。
 「働いても働いても貧乏している人達の味方になって、 そんな悪い社会を何とかよくしたいために勉強していることは、あなたもよく知っていてくださることと思います。 何か新しい、ほんとに世の中のためになる仕事を始めた人々は、 だれでも初めは社会からつまはじきされたものです。私は強い確信を以て、正しい勉強をし、やがて皆様への ご恩返しになるようなものになる準備をしていることをあなたに信じていただきたいのです」
  千代子が願った社会変革の方向は、 国民の苦しみの解決と民主主義的変革、主権在民と社会的平等が保障される社会だった。

 日本共産党員となった伊藤千代子は、すぐ党中央事務局の任務につく。具体的には「27年テーゼ」にもとづく党の方針を印刷するための ガリ版を切る仕事だった。「27年テーゼ」=この天皇制国家における日本共産党の方針をまとめた綱領的文書は、君主制の廃止による民主主義革命を強調するとともに、 日本帝国主義の中国侵略を鋭く予見し、糾弾していた。これに対し天皇制政府は、総選挙をつうじて国民への公然とした宣伝活動を展開した日本共産党の前進を恐れ、同年3月15日、全国一斉弾圧を決行し、1,600人に及ぶ日本共産党員と党支持者を検挙した。3・15事件だ。『蟹工船』で有名な小林多喜二は小説『一九二八年三月十五日』でこの事実を告発し、のちに特高警察に逮捕され、特高警察の拷問によって虐殺された。

 その前日から徹夜で原紙を切っていた千代子は15日朝、原稿の文字不明箇所を聞きに、滝野川にあった党の秘密印刷所へ出向いたところを、 張り込み中の警視庁滝野川署の特高警察に襲われ、路上で逮捕されてしまう。しかしながら、事件報道は6ヵ月も遅れて解禁され、新聞は「農村と工場赤化を図った本県の共産党一味」(「信濃毎日新聞」9月16日付)などと 警察情報が一斉に垂れ流された。

 千代子の取り調べを担当したのが、のちに小林多喜二への拷問を指揮した毛利基警部だった。 特高警察は、殴る蹴るの拷問にくわえ、若い女性には衣服を脱がせるなどのはずかしめでショックや動揺を与えようとする「身体検査」など、 卑劣なやり方で取り調べた。しかも市ヶ谷刑務所の待遇は、粗末な食事など不衛生で非人間的なものだった。 千代子が獄中から友人にあてた手紙にも、「独房はちょうど蒸風呂のようです」とか「暗くてシケ臭くてたまりません」などの文字が見られる。千代子はこうした扱いに耐え、獄中では他の人々を励ますとともに、出獄の日を展望し、『資本論』などの学習に励んだ。刑務所のひどい待遇は、千代子の身体をむしばんでいった。さらに29年、信頼していた夫の浅野晃が天皇制権力に屈服し、「天皇制支持」を表明して日本共産党解体を主張するグループに参加。検事は、千代子を毎日呼び出し、夫らの主張への同調を迫るが、 彼女はそれを拒否して闘った。。

 しかし、同年8月、苛酷な獄中生活に精神的な圧迫が加わり、心身ともに衰弱しきった千代子は、病院に移される。 千代子は当初、取り調べを受けている錯覚をしていて、「嫌だ、嫌だ、知らない、知らない」と連呼したり、 「先生(土屋文明のこと)のところへ行きたい」と問診を拒絶したりした、と担当医師は記録している。後にこの病院に残された多数の患者カルテを分析した秋元波留夫医師(精神科医)は、「拘禁性精神病」と規定し、 「特高の拷問・虐待・転向の強要・精神的苦悩といった限界状況が発病の原因と考えてよい」と語っている。

 そして、1か月後の9月24日、満足な治療も受けられないまま、千代子は急性肺炎で、24歳2か月の生涯を閉じる。
 千代子研究者の藤田廣登さんは「治療は放置されたままであった疑いが残る、突然の死だった」と書いている。千代子のたたかいは、人々の胸に刻まれ、信州の製糸女工の組合=日本製糸労働組合と救援会諏訪支部準備会は、 命日一か月後の10月24日を「工場で働く者の真の味方伊藤千代子さんをたたかいで弔う日」 とするよう呼びかけた。 


 土屋文明が千代子のことを次のように歌っている。千代子の没後6年、中国への侵略戦争が拡大している最中のことだった。

 まをとめのただ素直にて行きにしを  囚へられ獄に死にき五年がほどに
 こころざしつつたふれし少女よ  新しき光の中に置きて思はむ
 高き世をただ目ざす処女らここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき

 千代子の後輩・塩沢富美子は、自伝『野呂栄太郎とともに』に次のように書いている。
 「こういう極度に抑圧された世に、こころざしつつたおれし少女を憶い、その少女のこころざしを新しい光の中に歩ませたいと歌った文明の、権力者に対する抵抗の心を思うとき、一人の生徒であった伊藤千代子がその師に投げかけた大きな力を思わずにはおられない」

  土屋文明氏が、暗黒の時代に伊藤千代子が獄死した5年の後に「まおとめのただただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに」などの短歌を作ったことからもわかるように、 若い青年が日本の将来を憂いまっすぐな精神をもって活躍をしたことがあったことを今の多くの人たちが知り、現在のきわめて危うい時代に立ち向かうこころの支えになるような映画ができ、 多くの特に若い人たちの間にも広く普及することを願ってやまない。

 思想により国民が差別され、男女が差別され、自分の考え方が国の方向性と違っているだけで、国家権力が国民を拷問したり、辱しめを与えたり、主張や考え方を変えさせようとする暗い世の中で、社会の真実を知りその変革にひるまず立ち向かい、明るく生き抜いた伊藤千代子は素晴らしい。

  伊藤千代子のように絶対主義的天皇制権力による非道な弾圧を受けながら、侵略戦争反対、自由と民主主義にたつ政府の樹立、人権を守る国を目指して行動した先人たちが、日本の国の礎となって活動したことで、戦後の平和憲法の成立に直結している。日本国憲法では、主権在民となり、男女平等となり、思想や宗教の自由となり、平和主義が提唱された。まさしく伊藤千代子が目指した社会が実現したのだ。日本国民が侵略主義と民主主義否定に一辺倒ではない誇るべき人々がいた歴史を持っていることを、伊藤千代子をはじめとする実例で示すことになったのだ。

 最近、ジェンダー平等が国際的にも国内政治においても大きな課題になっている。とりわけ日本はジェンダー平等の国際的ランクが先進国としては最悪で100位以内に入るのも困難な国である。その中でも、 男女の賃金格差や議員数でもっと低い位置にあるジェンダー不平等国であることが大きな社会的、政治的問題になっている。

  伊藤千代子は、東京女子大一年生の時、ドイツの革命家ベーベルの「婦人論」を読み、親友に次のように書き送っている。
 「いいかげんな良妻賢母に育て上げようと小学校からして一定の目的の下にはめ込まれるのですからね」
 「女は(略)美しい催眠術に長い間かけられて来たに過ぎないのです。べーベルという人が実に痛快に『婦人論』の中に述べてあります。お読みなさることをお勧めします。」
 「女の人が覚める時、深い深い眠りから、男子の催眠術から、そしてまず自己に対する催眠術から覚める時、どんなにすばらしい新しい世の中が展かれてくることでしょう。」
 当時、ジェンダーという言葉さえかった時代に、男尊女卑の濃厚なこの国で、女性の目覚めがどんな素晴らしい世の中を開くことができるかと語った伊藤千代子の考え方は、当時としては稀有な先覚者といえる。

 ちなみに、諏訪高女の教師時代の土屋文明の教育方針は「教育に男女の差があってはならない、人間教育の場である」と伝えられている。伊藤千代子はその教育の最も忠実な薫陶を受け継いだ女性だといえる。

 そして、治安維持法は稀代の悪法と呼ばれる。昭和20年に治安維持法が撤廃されるまでの約20年間で、数十万人が逮捕された。そのうち約7万5,000人が送検され、約2,000人が拷問によって虐殺され、病気などで獄死した。共産主義者や社会主義者だけでなく、小説家や画家などの文化人や学者・宗教者等もその虐殺の対象となった。伊藤千代子もその悪法の犠牲者の一人である。戦後まで生き延びていてくれたら、治安維持法の撤廃と日本国憲法の制定に、素敵な笑顔をみせてくれていただろうに…。


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