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明治155年に想う① ~明治の子ども観~

 今年は明治元年(1868)年から数えて満155年にあたる。小学校の社会科で学んだ通り、明治政府の国策の3本柱は、文明開化・富国強兵・殖産興業であった。国の軍事力と経済力を高め、国際社会の仲間入りをすることが明治政府の目指すものであった。

 明治23年の第二次小学校令で、「児童」が「大人」とは異なった固有の性質を持つものであり、それに配慮するのが小学校教育であることが明示される。「大人」とは区別された「子ども」という観念が教育領域の主たる対象となる。しかしながら、労働者として扱われた貧困層の子どもの存在により、就学率が一向に伸びなかった。明治33年の第三次小学校令では義務教育が定められる。就学免除の事由から貧困が除外され、未修了児を雇用する者が教育を妨げないように規定するなどの措置がとられ、就学義務制が厳格に規定されていく。当時の「子ども観」は次のようなものであった。「子ども」という存在は脆弱であるため保護されなければならないが、その発達に沿った教育を施せば、将来的には健全な「国民」や「労働者」になる存在としての「発達する身体」であった。

 明治44年の制定まで15年も要した工場法成立の背景には、児童労働の問題があり、さらには、就学率のアップを求める政府と、マンパワーを求める資本家のせめぎあいが存在した。労働の現場の論理は、利潤や経済性の追求を旨とするもの、つまり、子どもも目下のマンパワーと見て使役することを志向した。工場法制定にあたっては、「産業の発達」と「国防」という面が強調されており、「労働者の保護」ではなく、人的資源としての「労働力の保護」という思想の下に制定されたものであった。

 明治という時代を「子ども」という視点で俯瞰すると、「未来の労働力」、「未来の兵力」になることを期待して就学率向上を目指し、より良い国民へと育成しようとする『教育的論理』と、工場主等の資本家から見れば、目下の労働力という、利潤や経済性を重視する『資本の論理』との対立的な構図がみられる。そこには、現代のような「権利の主体者」としての「子ども」という捉え方は全く存在せず、富国強兵、殖産興業、文明開化という国策への「橋頭堡」として児童を捉える、明治という時代ならではの「子ども観」があった。

 この4月に設置された「こども家庭庁」の「子ども観」はどうなっているのだろうか。こども家庭庁はたしかに「こどもまんなか」を謳っている。しかしながら、現政府ならびに「こども家庭庁」は、児童福祉法に規定された「権利の主体者」としての「子ども観」をどのように捉え、未来を担う子どもたちの豊かな育ち、安全感・安心感の担保、子ども人口が減少しているのに増加の一途をたどる児童虐待への対応にどのように繋げていくつもりなのだろうか。

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合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
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