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柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

 法隆寺シリーズの第2弾は「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」。正岡子規の有名な俳句だ。法隆寺は西院伽藍と東院伽藍という広い境内をもつ。シンボルともいえる五重塔と金堂は西院伽藍に、聖徳太子を祀った東院伽藍には有名な夢殿がある。
 法隆寺は、聖徳太子によって創建された。法隆寺の建立については、近藤に安置されている薬師如来坐像の光背に、太子の父である用明天皇の願いを承け、推古天皇と聖徳太子が推古15(607)年に、用明天皇のため薬師像を造り、寺を建てたことが銘文として刻まれている。
 聖徳太子は十七条憲法の第1条に「和をってたっとしと為す」と、仏法に基いた「和の精神」を提唱され、和合協調することの大切さを説いている。

 西院伽藍のメインである五重塔と金堂から中門を出て、百済観音像や玉虫厨子を納めてある大宝蔵院に向かう途中、聖霊院前に鏡池がある。なんとここで高さ1.5mほどの高さの句碑を見つけてしまった。この御影石には正岡子規の有名な一句が刻まれていた。

法隆寺の茶店に憩ひて

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 この句の初出は明治28(1895)年11月8日号の「海南新聞」であり、「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書きがある。「柿食えば」の句からは、ほのぼのとした明るさやユーモアも感じるのだが、この時の子規はなかに深刻な状況にあった。
 子規は明治25(1892)年に日本新聞社に入社。俳句の革新運動に本格的に取り組み始め、俳句に関する本を書いたり、新聞「日本」に俳句の欄を設けたり、精力的に活動し、明治28(1895)年には日清戦争従軍記者として、中国に渡った。俳人として、ジャーナリストとして、活動の幅を広げていた子規だったが、そんな子規に病が襲ってきたのだ。中国からの帰国の途上、子規は大量の喀血をして帰国後すぐに入院、一時は重体に陥った。喀血というのは結核の症状で、これは治癒率の低い、恐ろしい感染症だった。5月に帰国したものの、兵庫県の病院で入院して過ごし、住まいのある東京にはなかなか帰ることができずにいた。8月末に子規は、故郷松山に療養のため向かい、この時、松山で子規を迎え入れたのは、かの有名な文豪、夏目漱石だった。松山で夏目漱石と過ごした後、明治28年の秋に法隆寺を訪れて詠んだ句とされている。正岡子規の随筆「くだもの」には、奈良の宿で、女中が柿をむいてくれたことが書かれている。それを読むと、この句の成立前夜のことが書かれている。柿を食べていたら、意外にも鐘の音が聞こえてきたという体験は、宿で過ごしていた夜の出来事だったのだ。子規は、このときの感動や驚きを法隆寺の茶店という舞台設定をこしらえて句を作ったという。

 夏目漱石は、正岡子規とは帝国大学の同窓生だった。子規と漱石は深い友情で結ばれており、「漱石」という雅号も、もとは子規がつかっていたもののひとつであったと言われている。このころの夏目漱石は次のような句を詠んでいる。

鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺

 子規の句と比べてみても、秋の木の実と寺の鐘と言う取り合わせ、句の調子がそっくりである。子規の「柿食えば」の句は前述したように「海南新聞」11月8日号に発表されたのだが、それをさかのぼること約2カ月の9月6日号に漱石の「鐘つけば」の句が発表されているという事実を知り驚いた。「柿食えば」の句は、漱石の「鐘つけば」に触発されて詠まれたとも言えるのではないだろうか。

 私自身、夏目漱石が上記のような句を詠んでいたなんて知らなかった。「学びを深める」という作業の中で、自分が今まで知らなかったことに出逢えるのは何とも嬉しい。

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合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
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