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ディスレクシアって知っていますか②

 昨日アップした記事の第2弾。発達性ディスレクシアの研修で様々なことを学び、自身でもディスレクシアについての知識をさらに深めてみた。

 これはディスレクシアを抱えた方の小学生時代からの辛い体験談だ。
小学生のころから文字の読み書きが苦手な方で、中学では不登校になってしまった経験がある方だ。 

「小学2年のとき、道徳か何かの授業で配られたプリントを1時間目に読んで、次の時間に感想文を書くというものがありました。そのとき、自分は45分かけても、4行目の途中までしか読めなかったんです。授業の終わりごろに先生が教室内を回って確認をしていて、私のところで『まだそんなところ?」って言ったんです。周囲の友達からは『嘘やろ、俺なんかもう2回目読んどるのに』『お前何やってもだめなやつやな、バカやな」とわーっと責められて、自分は一生懸命集中して読んでたのに、なんでそんなこと言われなきゃいけないんだろうとつらくなりました。このとき、自分は文字を読むのが苦手なんだということに気づいたんです。 音読がある授業では、常に緊張していました。ほかの子が読んでいるときは、どこを読んでいるのか必死で追うものの、始めの30秒くらいで見失ってしまいます。しかし、音読を指名されてしまうと、起立するしかありません。当てられたときはまず、自分の教科書の前に、周りのみんなが教科書のどこを見ているかを確認します。次に読むところを知りたいからです。自分の前に読んでいた子の最後の音を覚えておき、その音と一致する段落の変わり目の一字下げの部分を探す作業をして、なんとか自分の読むべきところを探します。しかし、そのときにはもう先生から「早く読みなさい!」という声が飛んできます。恥ずかしさや緊張で心臓がバクバクし、とても音読ができるような状態ではありませんでした。 自分としては、『これ以上どう努力すればいいのか、誰か教えられるものなら教えてよ」という気持ちでしたね。がんばってもできない子と思われるよりは、努力してないからできないんだと思われたほうが気持ちとしては楽で、努力すらしないようになっていきました。努力って、上手になっていく実感が得られたら続けられると思うんですけど、どれだけやっても上達しないのに何時間もかけることはできません。人の倍やればどうにかなるかなと思っていた時期もあったけれど、やればやるほど自尊感情が落ちていったので、やらないという選択で身を守ったんです。」

 彼が小学生のころは、「ディスレクシア」という障害のことは、学校の先生を含め、ほとんど知られていなかった。彼自身もなぜ自分が読めないのかがわからず、配慮や支援をしてもらおうといった考えは浮かばなかった。とにかく、責めないで欲しい、読み書きができないからといって価値のない人間だというレッテルを貼らないで欲しい、と切実に願う日々だったそうだ。それでも、音読ができない彼に対して、「ふざけているんだろう」「怠けているからだ」「こんなこともできないなんて、人間の出来損ないだ」「学校に来るな」といった容赦ない言葉があびせられたのだ。

「今はこんなにひどいことは言われないと思いますが、当時はそういう時代だったんですよね。自分としてはみんなと一緒に学びたいのに、『教室から出て行け』と言われてしまう。それは、つらかったです」

 中学生のときは、教科書の単語の間に赤ペンで斜線を入れて、少しでも読みやすくなるよう工夫をしたという。しかし、先生に「教科書を粗末にするな!」「大事な教科書に落書きをするからできないんだ!ふざけるな!」と怒られ、読めないのは単なる努力不足だと責められてしまう。
 彼は高校卒業後に入隊した自衛隊で、文字を使わない実技中心の指導を受けるなかで自尊心を取り戻していく。そして、新隊員の教育係を務めるうちに、自分には人に教えることが向いているのではないかと思い始める。成人式のタイミングで、それまでの20年を振り返って今後どう生きるかを考えたとき、頭に浮かんだのは音読でつらい思いをしていた小学校時代のことだった。こんな苦しい思いをする子どもは、自分で最後になって欲しい。そう思って教師になることを決意。夜間の短大に通い、教員免許を取得した。彼がが通った夜間短大では、学生の年齢層にも幅があり、昼間の仕事もさまざまで多様なクラスメイトで構成されていた。そんな学生たちが学ぶ場では黒板をカメラで撮影することや、講義を録音することが許される「合理的配慮」がなされていたため、とても助かったという。免許取得後は、中学校の技術の教師として赴任。その後、特別支援学級の担当となり、現在は特別支援学校に勤務している。

 これまで担当した生徒のなかで、ディスレクシアの子は少なくとも5人いたそうだ。そういう生徒を担当したときは、自分のやり方を基本として、その子に合うかたちにカスタマイズして読み書きを教えるようにしてきた。一つ気をつけているのは、原因探しをしないことだという。読めない原因を探ると、「自分がだめだから」とか「親や先生のせい」という方向に気持ちに向かいやすくなるからだ。そうではなく、症状は症状として受け入れて、そのうえでどうしたら生きやすくなるのかを一緒に模索していく。ディスレクシアではない人は文字の連なりを見ると、それが文章であることが瞬時にわかる。しかし彼は、文字を見たときにまず、「これは図か?いや、図じゃない、字だ」と認識し、さらに縦書きか横書きかを確認。それからやっと、なんと書いてあるのかを読み始める。そのため、駅名の標示板やお店のメニュー看板などをパッと読むことができず、苦労している。フォントによっては、漢字が文字に見えず、地図だと思ってしまうことがある。つまり、文字を文字としてうまく認識できない。特に明朝体でそれが起こりがちだ。逆にメイリオ(コシック体の一種)などのフォントは読みやすく感じるそうだ。現在は「UDデジタル教科書体」がディスレクシアの方にとっては一番読みやすいフォントだと聞いている。
 
 では、彼が文字を読んでいるとき、頭のなかではどういうことが起こっているのだろうか。彼さんにとっては、文字は第一言語ではないという。むしろ、図形やイラストが第一言語だと自覚しているそうだ。たとえば、「ringo」という音を聞いて頭に浮かぶのは、「りんご」という文字ではなく、りんごのイラストや写真、匂い、味などだ。「願書」という文字を見たら、まず「ガンショ」という音が響くのではなく、顔写真が貼ってある書類のイメージがパッと浮かぶ。「学校」と見たら校舎や教室、生徒などのイメージ、「出願」とあったら提出する行動のイメージと、イメージをつなぎ合わせて意味を理解していくのだ。そのためか、図を描くのは得意で、図工はよくできたそうでだ。また、文字を見て単語や意味のまとまりをパッと認識できないため、小学校で先生が黒板に「たいことばちをもってきて(太鼓とバチを持ってきて)」と書いたときは、「鯛・言葉・血(たい・ことば・ち)を持ってきて」だと認識してしまったことがあるそうだ。

「どこまでが意味のあるまとまりかを見つけるのが難しいんです。また、見つけたものが自分の持っている語彙のどれと一緒なのかを、マッチングさせていく作業がしんどいです。文字を読むこと自体がストレスなので、続けていると視界がぼやけてきます。見えているんだけど、見たくないという心理状態。それを我慢していると、苦しくなってきます」

 ディスレクシアのある子どもが学校で困ることがないようにするためには、「合理的配慮」が不可欠だ。 
 家庭だけで全ての対策をすることは難しいので、担任教師やスクールソーシャルワーカー、カウンセラーと以下のような対策が可能か相談してみる必要があるし、学校側としても合理的配慮をする義務がある。定期試験などへの配慮も必要だ。

・初めて見る文章の音読
・漢字の書き取り
・黒板の文字をうつす
・メモを取る
・プリントなどは拡大コピーする
・読むときに虫眼鏡を使わせてもらう
・授業などで音読をする必要がある場合は事前にルビを振る手伝いをし、一度読み聞かせたり、家で練習できるように配慮する
・黒板の文字を書き写す代わりに、黒板の写真を撮ることを許可する
・別室で受験させる
・問題用紙を拡大したり、事前に漢字にルビを振るなどする

 最後に、ディスレクシア協会名古屋のホームページに「合理的配慮」についての文章が載っていたので、引用させていただく。

 合理的配慮は、障害者の権利条約に定められ、同条約を批准した日本では国内法を制定し、合理的配慮を提供しないことも差別とされています。 合理的配慮は、2006年に国連で採択された、「障害者権利条約(障害者の権利に関する条約)」の条文に盛り込まれた考えで、日本は国内法を整えて(「障害者差別解消法(障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律)」)、2014年批准しました。国及び地方自治体では義務とされ(民間事業者は努力義務)、合理的配慮を提供しないことも差別とされました。 2021年の第204回通常国会において改正障害者差別解消法が成立し、それまで努力義務だった民間事業者においても合理的配慮が法的義務化され、公布から3年以内に施行されます。 合理的配慮は我儘ととらえる人もいるようです。また、配慮がなぜ義務なのか。これについては、この概念の和訳で「reasonable accomodation」の「accomodation」を外務省条約が「配慮」と訳したことが日本では誤解を生む原因の一つになっているのではないでしょうか。「配慮」ではなく「調整」と訳したら印象は変わります。 合理的配慮は、決して障害者のために配慮してやるというものではなく、社会的障壁によって生まれた機会の不平等を正すための調整です。この社会的障壁の中には、事物や制度だけでなく、慣行や観念その他一切のものが含まれます。

ディスレクシア協会名古屋ホームページより引用



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合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
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