掌編小説「歌声喫茶」
歌声喫茶
神宮みかん
鏡をのぞき込む。
この瞬間、なんでこんなにしわが増えちゃったのだろう、としみじみ 歳をとったなと思う。 六十四歳になる私は、良いのか悪いのかわからないがちょっと痴呆の入った八十八歳の 母を介護している。
いわゆる、老々介護の状態だ。
「お母さんご健在でうらやましいわ」 ということを言う他人もいるけれども、決して介護は楽ではない。介護にかかる時間的 かつ金銭的な制約は非常に厳しい。
定年退職したサラリーマンだった夫は執行役員までのぼりつめたが仕事が趣味だった ような人で、今はただのヒトにも関わらず、「何かあったら遠慮なく言ってくれ」 と、言っているだけで定年後三年経つが特に何かしてくれる訳でもない。
夫に対してイラつきをぶつけたこともあったが、喧嘩になるのがおちで、うまくいかず 夫婦関係がギクシャクするので止めた。
時たま、こんな男を好きだったんだけな、と思う。 学生の頃は映画監督になりたいと言っていたのにいつのまにかこんな偏屈な人間にな ってしまったのだろうと思う。
私のこんな日常からの逃げ場は、母がショートスティの間に介護の気分転換に通おう歌声喫茶だった。 青春時代の曲を見知った仲間と歌う。心が癒やされる。休憩時間には互いの悩みを語り 合う。聞く方が多いが、先輩の介護の話、母と夫とどう接していけばいいのか、これから の自分の人生をどう過ごしていけばいいのか勉強になる。
歌声喫茶に通い始めて数回経った時だった。歳を感じさせないお洒落な先輩が言った。 「化粧や洋服をもう少しお洒落してきたら?」 気持ちが疲れている私は仲間に会うだけで良いのにまさかお洒落なんてと思い、先輩の 言葉に懐疑的な言い方をした。
「私はいいです。こうしてここに来るだけで気分が晴れますから」
「そうかも知れないけど、更に気持ちが晴れるわよ。私の介護はもう終わったけれども、 お洒落をしていたとき、気持ちが晴れたから。それに、私たち女性よ」
私は先輩の言葉に納得した。
「ほら、資生堂のCM覚えている?日本の女性は美しいってやつ」
「覚えています。あのCMすてきでしたよね」
艶やかな資生堂のCMが脳裏によみがえってきた。にわかに介護が始まってから化粧水等を新調していないなと思った。ちょっといい化粧品でお化粧をしてみようかな、という気持ちがわいてきた。 「どこで買ったらいいですか?」 「私のお勧めは鈴木ストアかな。ここに来ている仲間は結構、鈴木ストアで買っているわ」 「鈴木ストア?」 出てきた名前はデパートではなく聞き慣れない個人店だった。
「中央通りにあるの」 私は買い慣れない化粧品を求めて鈴木ストアの暖簾をくぐった。 店は白を基調にした店内だった。落ち着いた雰囲気で化粧品を選ぶのにピッタリだった。 強引に売ってくる素振りは全くなく、私との距離を取りながらゆっくりと販売してくれ るスタイルだった。
貼られていたポスターには、当社では、肌カウンセリングを中心に、お客様のご要望や ライフスタイルに合わせたスキンケア・メイクの提案・アドバイスをさせていただいてい ます。また、予約していただければ、ゆったりとしたエステコーナーもあり、超音波を使 ったソニックエステもお手軽な料金でお試しいただけます、と書かれていた。
私は久しぶりに対面販売で化粧をしてもらった。シミが消えた。私ってまだまだ綺麗になれるんだと再発見することができた。そして、多少財布に痛いが、それ以上に自分の気 持ちが穏やかになっていることに気づいた。
自宅に帰ると、済ました顔で夫が言った。 「映画のエキストラを始めようと思っているんだ。いつまでもうちの中にいるとぼけちゃ うからな」 その言葉を皮切りに夫はとうとうと映画のロケについての話を私に聞かせた。
話が一段落すると、私をまじまじと見た。
「お前化粧変えたのか?」
「わかる?歌声喫茶の時にちょっとお洒落な化粧をしようと思って」
「綺麗だな。俺と食事をすることがあったら化粧をしてくれるか?」
夫は照れくさそうに言った。
「どうしたの急に」
「なんかな…… 」 夫が言いたいことは長年一緒にいるのでわかった。
さて、明日は歌声喫茶。どんな歌声が響くのだろう。