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蒟蒻問答:人の感じ方は色々

蒟蒻問答という古典落語の演目がある。以下が話の大筋だ。

六兵衛という蒟蒻屋が、寺の和尚に成りすまして、沙弥托善と名乗る旅僧と禅問答を行う。蒟蒻屋の主人である六兵衛は、お経を読んだこともなければ、禅問答の知識も全くない。そこで六兵衛は口もきけず耳も聞こえないふりをして、旅僧から何を問われても無視をする作戦に出る。旅僧は何も答えない六兵衛に、身振り手振りで問いかける。それに対して六兵衛も、身振り手振りで応じる。一連の六兵衛の対応を見て旅僧は、「とても拙僧がおよぶ相手ではなかった」と語り、寺を立ち去った。(※詳細な内容はこちら)

この話に似たようなことは、我々の日常でもしばしば起こる。例えば、コミュニケーションの齟齬は、個人の捉え方の差異によって起こる。物事についてはっきりと公言しない、曖昧な発言が特徴とされる日本人の言葉の使い方において、いわゆるコミュニケーションの食い違いのようなことは、よくあることのように思う。

他人と議論をする際には、自分や相手が明確に異なる意見を持っている場合もある。それは主に、議論の焦点や論理の違いから生じる。論理は言語化が容易であるため、齟齬が起こりにくいが、人は言葉のみを用いてコミュニケーションを取っているわけではない。相手の表情やジェスチャー、声の大きさやトーンからも内容を把握している。そのような情報から得る感覚や反応は人によって異なる。社会的なコミュニケーションの難しさはここにあるわけだ。

このようなコミュニケーションの問題は、単純に物事に対する人間の知覚と認識、反応の多様性としても捉えられる。現実世界で起こるあらゆる事象に対して、それを人々がどのように認識して、反応するのかという問題だ。ある人にとっては大したことのない出来事でも、別の人にとっては重大なことであったりする。

このように、人とのコミュニケーション、および人生の出来事に対する感じ方や解釈は非常に多様だ。他人とのコミュニケーションは、単純に言葉には置き換えられない情報を多く含んでいる。さらに、出来事を認識する価値観のフィルターは、身体の構造(特に脳の認識機能)に加えて、個人の育った環境や考えてきたことに大きく左右される。

これらの無数と言っていいほどの沢山の「変数」が、他者との会話や物事の捉え方に関与していることを考えると、コミュニケーションにおいては齟齬が発生することや、特定の出来事に対してマイナスな解釈を抱いてしまうことも仕方のないように思う。しかし、無限の「変数」が「定数」でない限り、後天的に変えられるものも多い。解決の方法はいくらでもある。

ちなみにこの話には、旅僧が去った後、六兵衛の発言も取り上げられている。旅僧が、六兵衛の行動に大きな勘違いをしたように、六兵衛も旅僧の言動を、旅僧が認識したものとは全く異なる内容に捉えていた。旅僧は六兵衛が和尚ではなく、ただの蒟蒻屋の主人であることに気付き、自分のことをからかっていたと、六兵衛は捉えていたのだ(笑)。

2022年5月26日

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