Shota Uchiyama

23歳 / 日常に感じたことを熟々と。ブログはこちら → https://shota-diary.com/

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「自由」と「公共」の問題

人が充実した人生を歩む上で、社会の枠組みから脱して生きることはなかなか難しい。無人島で原始的な自給自足の生活を送れる人はあまりいないだろう。我々は社会に生まれた時点で、社会の恩恵を受け、その枠組みの中で長い時間を生きる。文明社会は人類最大の発明であり、飢餓やウイルス、戦争など数多くの危機から人々を守ってくれる。人と社会は切っても切り離せない関係なのである。 就職活動等で「社会貢献」という言葉を口にする学生や企業は多いが、社会に貢献するとはどういうことなのだろうか?人は生まれ

    • 世界の実態①:人間の脳と感覚器官による知覚

      しばしば世界は人間の認識している通りに存在しているのではないことが指摘される。それは一般的に、我々の脳の構造や感覚器官の機能を理由に説明される。 ドイツの生物学者であるヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した環世界という考え方からも、その可能性は伺える。すなわち、それぞれの生物は特有の知覚によって各々の世界を持っており、客観的な世界の実態を知覚しているわけではないということだ。また、量子論においても、観測者によって世界は把握されると考えられている。観測されたものだけが物質化

      • なぜ日本のメディアは…

        マスメディアに対して以前から抱いていた疑問がある。それは、国内や国外ともに報道するべき重要な現象が起こっているにも関わらず、なぜ国内のあまり重要とは思えない出来事ばかりを報道するのかということだ。 特に著名な人物の私的な諸事情に関する報道にはどれほどの価値があるのかと疑問に感じる。ニュースとして取り上げる理由があるとするならば、それは他者への妬みや恨みなど、世間の人々の負の感情を解消することに関係があるのだろうか。もしそうであるとすれば、それは人間の普遍的な弱さに基づくもの

        • 「成長」とは何か:社会的にカタチとされた能力や技術の追求

          しばしば多くの教育機関や企業で、個人は「成長」を求められる。なぜ社会は個人に成長を促すのだろうか。そして、その成長は個人の人生を豊かにするのだろうか。 ここで言うところの成長とは、一般的には能力や技術の拡大を示す。出来ないことをできるようにすることや、その質を上げることだ。新しい能力や技術を身につけることは、しばしばその過程で苦痛を生み出すこともあれば、喜びを起こすこともある。ここで重要なことは、そのような能力や技術の習得は、本人が納得して求めるものなのかということだ。

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          「表現」としての人生

          人生や生きることについて、ここ数年間考え続けている。「生存」という側面では、最低限の生活をすることが可能になった現代社会において、そしてその状態がさらに推し進められるであろう未来の社会において、「生きる」とはどういうことなのか。「人生」とは何を示すのだろうか。 僕の場合、生きていることを実感するときは、自分の興味や関心のあること、好きなことを行っているときであり、充実感に浸っているときである。それはすなわち、情熱を持って行動している状態を指すのだが、最近は少し異なる側面から

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          『コンテナ物語』:イノベーションとは何か

          イノベーションとはどいうものを示すのだろうか。近年では様々なテクノロジーやそれに基づくシステムが開発されているが、その都度それらは「イノベーション」や「社会を変える」といった表現がされる。しかし、新しい技術が開発されたところで、実際には社会に普及するにあたって数多くの問題を乗り越えなくてはならない。それらの問題とは、発明に関わるあらゆる組織の利害関係によるものもあれば、既存の制度や国の法律が関与する場合もある。 イノベーションとそれに基づく社会の変化を最も分かりやすく示して

          『コンテナ物語』:イノベーションとは何か

          期待を超えるサービスにおける「期待」の水準

          しばしば接客業では、商品価値とは別に、サービスの価値を求められる。顧客の期待する以上のサービスを提供するためにはどうすればいいのかという問題だ。「期待」と「サービス」という抽象的でかつ明確な水準のない要素が関係しているため、具体的な行動を示す場合には表現が曖昧である。 「サービス」をお客様に対する直接的な価値ある行動と定義したときには、それはいわゆる接客のことを示している。しかし、期待を超えるサービスを成立させる接客とは、多くの場合は、消極的ではない積極的なものを指す。顧客

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          哲学か感情か:『バイオハザード』と『The Last of Us』の物語を貫く要素

          しばしばYouTubeでゲームを鑑賞する。基本的にゲームを行うには長い時間を要するため、自分ではプレイしないが、その内容と物語は解像度の高さもあってか映画のように見ることができる。倍速で再生できるところや観たいところのみを鑑賞できるところは、近年の動画コンテンツのメリットと言える。 デジタル技術の向上により、ゲームの解像度は一昔前と比べて格段に高くなった。自然や人間の動き、表情がとても正確に再現されている。特に最近では『バイオハザード』や『The Last of Us』等の

          哲学か感情か:『バイオハザード』と『The Last of Us』の物語を貫く要素

          ゲームの解像度

          しばしばYouTubeで最近のゲームの映像を目にするが、驚くほど解像度が上がっている。人間の表情や動きはもちろんのこと、自然の細かい描写に至るまで正確に表現されている。以前と比べて、違和感をあまり感じさせない。 10年ほど前の映画やアニメーションに利用される映像技術は、現実とは程遠いものであったように思う。まだ人間の手によって描かれる描写や実際の人やモノの動きを利用した表現の方が違和感なく受け入れられた。既存の人やモノによる描写と技術による表現とを混ぜて映像を作り出していた

          ゲームの解像度

          日記⑲:あれこれ考えず、成り行きに任せること

          前回の記事『考えるときと夢中に行動するとき』では、題名にもあるように人生には2つの期間があることを述べた。そもそもこの記事を執筆しようと思ったきっかけはまさに、僕が自分の現況を見誤っていたからに他ならない。目の前のことに集中して取り組む時期であるにも関わらず、そこに無駄な思考を介在させていた。夢中になれることに夢中になり切れていなかった。 自分の感情や気持ちを客観的に捉えてはいたものの、目の前のことに本気で取り組んでいいのだろうかと自分自身を止めていたように思う。色々な理由

          日記⑲:あれこれ考えず、成り行きに任せること

          考えるときと夢中に行動するとき

          人生には、①じっくり考えるときと、②やるべきことを継続して行動に移し、あとは成り行きに任せるときがあるように思う。前者のようなやるべきことが分からない状況では、色々なことに思考を巡らす機会を作ることが賢明だ。一方で、後者のような目の前にやることが見つかっているときには、ただ行動をすることのほかに選択肢はない。考えても仕方のないことに時間を費やすのではなく、継続的に行動することが重要だ。 自分自身の現況が、この2つの状況の内のどちらであるのかを判断できなければ、しばしば何に時

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          散歩という瞑想

          しばしば散歩をする。普段は歩くことのない家の周辺を散歩することもあれば、目的地に向けて遠回りをして静かな通りを歩くこともある。何を考えるということもなく、ただ歩く時間を設けている。 散歩をしているとき、3つのことが無意識に行われる。1つ目は、過去の出来事が思い返され、感謝が生じる。当時は前向きに捉えていたこともそうでないことも含めて、記憶をさかのぼり、あれやこれやと思い返す。過去の事象を当時の自分にはなかった見方や視点から見つめ直す。それは僕に新しい気付きや発見をもたらし、

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          不満と不安:キャリアの考え方

          日々会社で働いていると色々な不満を抱く。大きな会社であればあるほど、個人と企業との間に摩擦が生じることは多々ある。しかし、個人は企業から多大な恩恵を受けていることは事実だ。企業に所属し、働くことによって得られる豊かさは確かにある。そうは言うものの、人はどうしても狭い視野で物事を捉え、自己の利益を優先的に考えてしまう。働くことの最大の理由が、労働の対価としてお金を得ることである以上は、それは仕方のないことだろう。 このような不満は、ある意味では大きな組織に守られているからこそ

          不満と不安:キャリアの考え方

          「心」と「頭」の距離を近くする

          しばしば「心」で感じることと「頭」で考えることが離れてしまうことがある。自分自身の感情と向き合っているときや物事を言語化して他人に伝える際にその乖離が起こる。自身の抱く感情を必要以上に複雑に捉えてしまう。また、心で感じていることを直接的に表現するのではなく、むしろそれを遠回しに複雑化して言葉にすることがある。 心で感じていることを放って置かないことはとても重要だろう。しかし、それと真剣に向き合おうとすると頭が割り込んでくる。本来はシンプルであるはずの感情を何とか説明しようと

          「心」と「頭」の距離を近くする

          移り行くものとの関わり②:自然

          『移り行くものとの関わり①:人間』からの続き より視野を広げて考えてみると、人類史という観点では「自然」はかつて制御不可能なものであった。もちろん、今もなお完全に制御できるわけではない。しかし、近年の様々な科学技術の急速な発展により、人間は自然の法則を科学的に解明し、その知見を利用することで一部では自然をコントロールすることが可能になった。 自然を自分たちの都合の良いように制御することができなかったかつての人類は、それらと共存することを考えた。現代に生きる多種多様な動植物

          移り行くものとの関わり②:自然

          移り行くものとの関わり①:人間

          人生で自分の時間を費やすものには、大きく分けて2つあるように思う。1つ目は自分の力で結果が制御可能なもの、2つ目は自分の力ではどうしようもないものである。 例えば、本を読めば知識はつく。具体的な知識や技術を習得することに関しては、自分の投下した労力がそのまま結果として得られる。もちろんそれに費やす時間や労力の度合いによっても得られるものの程度は変化するが、全く身に付かないということは少ないだろう。 一方で、自分の力では結果が制御できないものもある。それは様々な要素が結果と

          移り行くものとの関わり①:人間