「自由」と「公共」の問題
人が充実した人生を歩む上で、社会の枠組みから脱して生きることはなかなか難しい。無人島で原始的な自給自足の生活を送れる人はあまりいないだろう。我々は社会に生まれた時点で、社会の恩恵を受け、その枠組みの中で長い時間を生きる。文明社会は人類最大の発明であり、飢餓やウイルス、戦争など数多くの危機から人々を守ってくれる。人と社会は切っても切り離せない関係なのである。
就職活動等で「社会貢献」という言葉を口にする学生や企業は多いが、社会に貢献するとはどういうことなのだろうか?人は生まれてから、社会の恩恵、例えば義務教育等の社会保障制度を受け、生きていく。上記の観点からも、社会的メリットを受けている我々は、社会に何かしらの形で付加価値を提供することが求められる。それが「社会貢献」である。すなわち、自分が授かった恩恵を社会に還元すること、それは社会の枠組みで生きることを選ぶ人間には義務付けられたものと捉えられる。
多くの人々は自身の個人的な幸せを「社会貢献」と切り離して考える。もちろん、何を社会貢献と捉えるかで問題は変化する。例えばお金を稼いで税金を納めることを「社会貢献」と位置付けるのであれば、お金を稼ぐために、自由な時間は失われることとなる。アルバイトで働く者やサラリーマンにとっては、社会貢献と個人の自由を100%確立することは無理がある。
上記のような働き方や資産の増やし方をしていない者も多いことはもちろん知っている。しかし、自分の時間を売ってお金を得るという「労働」の思考が人々の自由な行動を抑制していることも事実である。それは考え方のクセであり、多くの人が抱える「思考のクセ」を取り払いたいと思って、現在文章を書いている。
話が逸れたが、個人の自由を縛る要素に、法律や制度が挙げられる。それらは倫理や道徳を基盤とする社会的秩序を維持していくことが目的であるが、その「倫理」や「道徳」の基準はどこまでいっても明確な論理でもって確立させることはできない。
このような文明社会と個人の自由の両立に関する内容は、昔の偉人たちによって「自由」と「公共」の問題として数多くの書物が書かれ、議論されてきた。まだ21歳の僕にはその答えが見いだせていないし、思考には限界があるとも思っている。様々な分野に及ぶ自分の考えを体系化したいと思い、文字で起こしてみたが、抽象的すぎるこの内容では、まだまだ議論すべき点が数多くある。
一つの物事を様々な側面から客観的に捉えられる能力を身につけ、僕自身、自分の思考のクセを発見し、改善していくためにも、定期的に文字に起こして直近の話題を共有していきたい。
2021年5月2日