意志なんか持たずに生きよう
人は過去の自分の選択を正当化したがる。わからなくはない。自分の人生は一つしかなく、それを幸せであったと断言しない限りは救われない、納得できないではないか。しかし、その根拠はどこにあるのか。自分はあの時正しい行動をしたとなぜ断言できるのか。その行動をあなたに促したあなたの意志などは存在しなかったというのに。
人は自分が、自分の意志でもって判断し、行動し、人生を創造してきたと考えている。しかしそれはただの勘違いだ。人は常に外部から何かしらの影響を受けて行動する。その影響がなければ、あなたは行動しない。したがって、純粋な自分の意志が行動を左右することはあり得ない。
明確な意志を持って行動することが美徳とされることがしばしばあるが、どんなに覚悟を決めたことでも、考え抜かれたことでも、行動の源泉は意志とは関係なく、ただ外部からの影響に促されて触発された感情に過ぎない。しかし、その感情そのものは非常に大切にするべきである。特に自分の興味や関心、情熱に言い換えられるものは、その人の人生を確実に豊かにする。
人は社会的責任を背負うあまり、意志や覚悟など、いかにも正当で格好が良さそうなものを保持しているという幻想を抱くことを根拠に自分の判断を正しいと考える。しかし、それは自分を苦しめることにしかならない。そこに、純粋な感情が湧くことはなく、社会的責任が背後にある以上は葛藤が続く(社会的責任とは、その社会で通用する一般常識や価値観などを含む社会という枠組みにおける固定的な考え方をここでは示している)。
人類はそのような「葛藤」や「悩み」と長い間、闘ってきた。人類の歴史とは、自然的自己に対する社会的自己の抵抗の歴史である。「自由」と「公共」の問題において、真の社会貢献は個人的自由が前提となる。その抵抗ををくだらないものと思えれば、自分の可能性を信じることができれば、その人の人生はその瞬間に豊かなものとなる。
そのような考え方にシフトするには、社会に通用する固定観念や価値観、常識を注意深く疑うことが必要だ。そしてそれが真理ではなく、人生の原理に則ったものでないことに気付ければ、そしてその原理を信じることができれば、目の前で起こる出来事も変化していくだろう。
2021年8月6日