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客観視による中立性の維持
全ての現象には実質的には意味がない。我々が現実世界で知覚する現象のことだが、それ自体にはそもそも意味は備わっていない。我々が、唯一それに意味を与えることができる。ある現象の受け入れ方は、各個人が選択している。
人生が上手くいっている人には、ポジティブな人が多い。如何なる出来事も、前向きに受け入れている。しかし、それは事象の客観視ができて、初めて実行することができる。物事をあらゆる側面から眺めることのできる俯瞰能力がなければ、前向きにも後ろ向きにも選択しようがない。
そのような点で、真に前向きな人というのは一見ポジティブなようで見えて、実はそうではないのだ。彼ら彼女らは常に中立点に立っている。中立性を維持することで、反応の選択を行うことができる。
感情が良い意味でも悪い意味でも豊かな人がいる。その人は客観性を得ることでたどり着ける中立点を知らない。したがって、ポジティブにもネガティブにも感情の針が大きく揺れ動く。0地点にいることは稀で、時に気持ちは昂り、時には酷く沈み込む。
目の前で起こることに左右されないほどの強いメンタルを持つことが、日本社会では良いこととされている。学校教育では、そのような認識のもと教育が推進されることはないが、多くの指導者は少なくともその必要性に関しては同意している。他のコミュニティにおいてもそう教わることが多く、特にスポーツ等では、忍耐強い精神性を持つことが美徳として扱われる。
しかし、当然のことながらそのような価値観は人に精神的な負担を強いる。メンタルを主観的なものと捉え、鍛えるのではなく、本来目の前で起こることに左右されない客観的な存在であることを知ることが重要だ。実際に現実の出来事に対する反応は、その出来事によって引き起こされているのではなく、その反応を自分自身が選択することでもたらされている。
特定の事象が我々にどう関与するか、本当に関与しているのかを深く考えてみると、そうではないことが分かる。人によって感じ方が違うという事実がその証拠だ。
外側の現象と内側の反応の間には、社会を否定的に認めることで形成され(あくまで個人が選択し採用したものだが)、蓄積された価値観や常識と言ったものが介在している。それらは固定観念というフィルターに変質し、無意識のうちに我々は特定の物事に過剰に反応するようになる。
客観視する、中立点に立つということは、この固定観念を特定する作業だ。我々がある現象に反応した際、その状態を客観的に眺めることで、その反応を選択させている観念を抽出することができる。
もちろんポジティブな反応に関しては、特にそのような作業は必要ないだろう。しかしネガティブな反応に関しては、中立点に立ち、冷静に観念を特定する必要がある。都合よく、後ろ向きのもののみに対処すればよい。
2021年12月15日