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夜の本屋。

仕事が終わって、「あゝ、どこか寄りたいな(行きたいな)」と思った時って、少し自分の内面に耳を傾けられているようで、大切な時間だと思ってます。


でもそんな時、適度に距離があって(僕は運転好きだからクルマ移動を考えて)、適度に雰囲気が良くて、適度に知的好奇心が満たせてくれる場所って、少ないんですよね。


こんな余暇難民の僕が代官山の蔦屋書店を見つけたのは、もう6〜7年くらい前だと思います。


うちからクルマで50分くらいの距離で、フィラメント電球の灯で雰囲気よくて、専門書や雑誌が多くて、それに夜7時以降は2時間駐車代無料。


なんて素敵な場所!


そして、そこにはいろいろな人が来ます。
俗に言う「スタバでMacBookを広げる意識高い系」や「東京カレンダー系」、業界人らしき方や海外の方も多いです。
そして僕のような「何してるんだか分からない系」…。


でも、10時半を過ぎて人がまばらになってくると、そこにいる人たちからは先の「〇〇系」の方々にある特有の緊張感が少しずつ薄れていくのを、張りつめていない自然な空間が徐々に広がる感じを、僕の鈍っていた感覚でさえ少し感じました。


それは、“日常”という「しなくてはならない」状態から、「しなくてもいい」状態に変わりつつある瞬間だったのかもしれませんが、同時に「しなくてはならない」ものが隠していた僕たちの空虚を、表に出す瞬間でもあります。


張りつめたものが剥がれた時の僕たちの空虚さは、それは耐え難いものです。
その耐え難いものから逃れるために、僕たちはあらゆる気晴らしをするけれども、結局は何の解決にも、むしろ手段にもなってなくて、気怠さばかりが増す一方。


ただ、「満足して1日を終えたい」だけなのに・・・


数冊のまえがきを読んだ後、次の書棚に向かう際にはすれ違う人もかなり減っていたけれども、少なくともこの中には、時間という区切りではない今日という日を充実して終わりたいという小さな葛藤が、紙とインクの匂いに混ざって介在していたのかもしれません。


12時半頃に僕は代官山を後にしました。
上りの246号線では感じていた気怠さが、いくぶんか取り除かれて、終電過ぎのタクシーの群れと共に下り線を走っています。


「今日という日が終わった。これでしっかりと区切りがついた。」


その小さな、自分自身にしかわからない充実が心地良さとなって、次の活動の糧になるのかもしれない。
本当に糧になるかは分からないけれども、そう願っています。

また近いうちに来るだろうと思って買わなかった本は、僕の中でまたひとつの糧でもあったり、なかったり。

それでは、またの機会に。​

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